忘形

忘形の表紙

 一つ、私と出会ってからこれまでのことを書くこと。

 一つ、あなたの思う私をありのままに想像で書くこと。

 一つ、あなたの思っていたことをありのままに書くこと。

 一つ、書かないことがあってもいいけれど詳しく書くこと。

 この物語はフィクションです。

 実在の人物・団体・事件とは関係がありません。

第一話 はじめまして

降りみ降らずみの冬空に寄りかかった背中を引っ剥がす。毛布に絡め取られながらも伸ばした腕は枝のよう。回転椅子の背もたれに指先を掛けて引き寄せてから、寝床と地続きになった座面へ這いつくばって何とか半身を上陸させた。骨ばった痩身は瞬く間に椅子へ温度を吸い取られてしまう。この体は細いというより薄いのだ。腕に巻き付く血管の今にも全身を食むほどの拍動を感じられるほど。骨身に染みるとはこのことだろう。

 体感にして十秒ほど、実際のところ五分ほど。末端にまで熱が行き渡るのを待っていた。蛹の中みたく溶け合いそうになっていた体も何とか石くれみたく固まってきて、けれども今度は硬直してしまって動かせなくなったので、やがてふやけて戻るまで待つのに十五分ほど要した。ようやく立ち上がったはいいものの、まだ何かを始められるほどに心の方はどうにも準備ができていなかったようで、ただ漫然と部屋の中をうろついてから、それからまた椅子に腰をうずめてしまうことに。このままでは二度寝に終わってしまう。

 強迫観念めいた後ろめたさを背に、やおら机の上のノートPCを開いた。わずかな期待を込めての行動。いわばスイッチと同じ役割だ。とりあえず開いてしまえば何かと繋がることができて、そうしてオンとオフとを切り替えて、何事もなかったかのように作業なりお喋りなりができる。ルーティンと言ってもいいかもしれない。パスワードを入力すればたちまち開きっぱなしのDiscordが目に飛び込んでくる。ボイスチャットの欄には既に四人いる。作業通話に入れば作業をする気になるし、自分と同じ作業をしている人の声を聞いていると、何となく一緒に頑張れているような気になる。

「……お、こんちはー」

 最初に声をかけてくれたのはカタヒラさんだった。この方はいつも入室音に間髪を入れず挨拶を投げてくる。それに続けてYOMOさんやレサレさんが挨拶をしてくれた。

「こんばんはー」

時刻は十九時を過ぎていたので「こんにちは」ではなく「こんばんは」と、さりげなく訂正するように返してみた。だからといって間違いを指摘したいわけでもなかった。

「ほんとだ、もう『こんばんは』か」

「ホンマですよ。やのに、さっき起きたばっかで」

正確に言えば目はとっくに覚めていたのだけれど、ただ体を動かすのが億劫で、天井が黒く見えなくなったり、逆に目が慣れれば見えるようになったりするのを眺めながら、ひたすら寝床に張り付いていた。この怠惰を取り返すのはいつだって夜だ。

「まぁまぁまぁ、こっから進捗出していきましょ」

そう言ってレサレさんをはじめ他二人も各自の作業に戻った。こーいちさんはいつも通り画面共有をしながら黙々と描いている。わたしもそれに倣ってすぐさまタブレットを開いて絵を描き始める。

「そういや肖くん、昨日あげてた絵見たよ。めっちゃ手込んでるねー」

レサレさんから挨拶ついでにお褒めの言葉をいただいて、感謝よりも先に「案外雑ですよ」なんて謙遜なのか卑下なのかも区別のつかない変な言葉を返してしまった。

「や、雑でもそれっぽく見せるのが上手いというか……むしろそう見せる技術みたいなのがすごいなーって思いますよ」

「俺マジで背景苦手だからさー、肖くんの絵うらやましいもん。俺の『雑』なんて幼稚園児の落書きレベルよ」

「逆に僕、カタヒラさんみたいなアニメ絵描けないですよ。隣の芝ってやつですよ、結局」

これは謙遜でも忖度でもなく本当のこと。わたしは風景画ばかり描いていて人間を描くことがひどく苦手なのだ。特にデフォルメされた人物の顔などは描こうと思っても描けない。ひとえに不慣れなだけなのかもしれないけれど。

「ま、俺もやれることやるかー。肖くんも頑張ってー」

 そう言って軽い談笑をいくらか済ませたのち、わたし含め通話にいる五人は黙々と絵を描く作業へと戻る。顔も名前も知らない誰か。けれども絵を描くという共通の趣味もとい目的だけを寄る辺につどっている。ただそれだけの頼りない距離感が心地いい。誰もとひとしく遠い距離感を保っていたいのだ。好悪も優劣も差し置いて、ただ人であるという繋がり。それだけで済む世界であれば一体どれほど生きやすかっただろうか。けれど、そんな綺麗事は絵や物語の中で留めておくべきなのだろう。だって突き詰めれば人は群れなくなってしまう。誰かを求めなくなってしまって最後は生物としてのしごとを放棄してしまうだろう。そんな未来は美しくない。対して、この世界は美しい。だから…………わたしは、この世界を写実的に描いて、その美しさを忘れないでいたい。そう思う。

 いつもの物思いに耽っていれば、不意の入室音に大袈裟なほど驚いてしまった。例のごとくカタヒラさんが即座に挨拶をする。それに対して返答はなかった。代わりにテキストチャンネルに[こんにちは]と投稿されていた。マイクをミュートにして入室したのだ。

「はじめまして。餅……人間……さん。でいいですよね?」

「お、ホントだ。はじめましてー」

[入力中…]と表示されている間にも、マイクオンの何人かで「はじめましてだよね?」 などと互いに確認をとっていたり「ここは作業通話です」なんて自明なことを紛うことなき親切心で伝えたりしている。わたしもそれに同調して「肖と申します」とだけ、訊かれてもいないのに自己紹介をした。

[はじめまして もちにんげん、と申します]

 文字数の割に入力中の時間が長かったのは、きっと漢字で名前を入力したはいいけれど読み方を分かりやすくした方がいいだろう、なんて発想でわざわざ打ち直したからだろう。あるのかないのか定かでない善意。たった二行の文面から、なぜかそんなものを感じた。

「わざわざひらがなでありがとうございます。餅人間さんは絵を描かれる方ですか?」

このサーバーにはCicさんの絵を見て、絵描きとして憧れて入ってくる人が多いけれど、稀に純粋な鑑賞者として支援する目的で入ってくる人もいる。月々の課金を条件にこのサーバーへは誰でも入って来れる。とはいえ絵描きが大半なのは事実だ。だからといって初対面の相手に絵描きであるはずだという前提を押しつけぬようにしなくてはならない。

[はい]

「お、どんな絵描かはるんですかー? どこかに公開してはります?」

 しばらく待っていると[入力中…]がぴたりと止んだ。沈黙が気まずいのかレサレさんは意味もなく「ねー……」なんて零している。他の三人は特に関心を向けることなく黙々と絵を描いている。いつも通り静かなのは変わりないけれど、いつも以上の沈黙が通話に漂っているように思える。そんな沈黙を一、二分ほど過ぎたあと、テキストチャンネルに何枚かの画像が[こういう絵を描いています]という文言とともに上げられた。

「え、すごーい! うまーい!」

「え、うっま」

「すご……」

「んー? あ、これか。上手いな……」

 先ほどまで黙って絵を描いていた面々も餅人間さんの絵を見て感嘆の言葉を漏らした。一方わたしは黙り込んでしまっていた。話を振った張本人であるにもかかわらず、わたしは思わず息を呑んでいた。確かに上手い。それは明らかだ。けれど。それだけでは片付けられない、そんな安直な言葉に回収してしまうのは惜しいほど、今見ている絵には不思議と惹かれるところがある。引き込まれる、というのは違う。むしろ突き放されるような感覚に陥る。ルドン…………そう、彼の絵と同じような絵肌をしている。だから惹かれた?いいや、そういうわけではない。これはまだ、得たことのない感覚だ。

 どれもが人物画だった。描く対象は様々だけれど、共通して顔が曖昧に描かれている。かろうじて表情は分かる程度。顔以外はコントラストも筆致もはっきりしているのに、目や鼻や口といった顔のパーツは主線がものすごくぼかされている……あるいは線として全く描かれていない。モネの『日傘をさす女』がちょうど似た感じだったか。細かく見れば雑に見えても引きで見れば絵になるといった印象派的な描き方。どちらかといえば象徴的な描き方だろうか。けれど、この絵は…………一体、何を描こうとしているのか。

「………………すご」

 思索の逡巡に置いてけぼりになった挙句に出た言葉はひどく陳腐なものだった。けれど言葉で上手く説明できる気はしない。それにそこまでの感想は現時点では求められていないのだから、今この場においてはこの程度の素朴な感想に留めておくべきだろう。

[恐れ入ります]

それに対して返ってきた言葉はいたく見慣れぬものだった。それがあったか、と膝を打ち、そして次からはわたしも同じように返そうと思った。

「なっかなか、見ない絵柄よね」

「ね、YOMOちゃんの絵柄も結構なんていうか……ネットじゃウケなそうな部類だけど、これはもっと……イラストっていうよりは絵画っていうか」

イラストだって立派な絵画でしょう、なんて諫言じみた本音が飛び出そうになったけれど、それを放したところで互いにメリットはないので、そっと心の澱の中へ連れ戻してやった。

「え。TwitterとかPixivとかってやられてます?」

 餅人間さんの絵をもっと見たいと思ったから。ただそれだけの理由。

「ぜひ教えてくださーい」

「私も知りたーい」

[mochiという名義でやっております]

「あ、プロフィールのとこに載ってますね」

「ほんとだー、あんがとねー。じゃ、ちょっとフォローしてもいいっすか?」

[はい ありがとうございます]

「餅さん、って呼ばせてもらおうかな」

「いやー、上手いわー」

「これってデジタルですか? それともアナログですか?」

[デジタルです]

「ソフトって何使ってます?」

「これでアイビスとか言われたら死にたくなるわ」

[Procreateです]

「あー、ぽいわ。厚塗りの人とかがよく使ってるイメージ」

「どういうキッカケで入ろうと……ここに入ったキッカケは何だったんですか?」

「ねー、気になるー」

[Cicさんの絵を見て一目惚れしたからです]

 なんて率直で力強い言葉なのだろうか。口にするのも恥ずかしいほど剥き出しの感情をその人はいとも簡単に、さも当然かのごとく文字にした。この先の人生。そう言ってしまえるほどのものに、わたしは果たして出会えるのか。たとえ出会えたとして、わたしはその言葉を、自らのものとして引き受けられるだろうか。

「一目惚れ……すごいですね。よっぽど衝撃やったんですね……」

どうしても胸に残る言葉だったので、純粋な好奇心から追及したくなった。先ほどまでの質疑応答とは打って変わって[入力中…]の表示が消えたり現れたり……丁寧に言葉を選んでいるか、もしくは一分程度では書き足りないほどの言葉が溢れているのか、長考している様が画面越しにも垣間見えてきて、にわかに明るいものが込み上げてくるのを感じた。そして期待通り、けれど予想は大きく裏切って、

[大胆なタッチで余白を残しながら描かれているところに感動しました。人間に表れる光と影とが緻密に描かれているところにも。私もこんなふうに描けたらと思い入会しました。私は人間を描くのが得意ではないので学ぶべきところがたくさんあります。まだまだ足りません]

 遥か遠くを見据える野心を感じられる言葉だった。執念と言ってもいいかもしれない。その場しのぎの謙遜などでは決してない、ましてや無根拠な傲慢さの顕れなどでもない、余人には到底触れることすら叶わぬほどの剥き出しの本当。それの伝わる、言葉だった。

「いやいや充分上手いよ……。いやぁ、向上心すごいですねー」

「うん、上手い」

「絵柄が確立されてるっていうのがスゴいよね」

「確かにCicさんリスペクト感じる。塗りの感じとか特に」

 こーいちさんがそう言ったのを皮切りに他の三人も深く同調し始める。けれど、どうもわたしには…………人間を描けていない、そう思えてしまった。人間を見ながら描いた人間ではないように思えた。あるいは、この人の目には、こんなふうに映っているのかもしれない。この絵は、見ていると何だか、どこか悲しくなってくる。

「え、描き始めて歴何年くらいですかー?」

[デジタルで描き始めたのは二年前です]

「え、二年? あ、でも小さい頃から描いてはいたってことか」

[はい]

「いやぁ、またまたスゴーい方が来られましたよ」

「ちなみに……、おいくつですか? あっ、答えたくなかったら全然いいからね」

[中学2年生です]

「えっ、中2!?」

「マジでー?」

「てことは……肖くんと同い年? あれ、今何年だっけ?」

「僕は中3ですね。なんで、僕の一個下やと思います」

「うっそぉ、最年少更新じゃん。え、てか肖くん高校生なんの? 早すぎない?」

「ここ入ってきたのっていつだっけ、去年とか?」

「中1の三学期、なんで……もうすぐ二年経つってことですかね」

「やば。もう二年も経つの……。ウチ、何もしてないよ」

「時の流れは速いですなぁ」

「時の流れに身を任せ~~」

「でも、さらにその一歳年下ってことでしょー? それでこんな上手いんでしょー?」

「最近の子って信じられないくらい絵上手いですもんね。無料の教材が充実してますし」

「このサーバー、たぶん未成年も何人かいるんだけど、通話のレギュラーメンバーで言ったら肖くんと……あと はいし ちゃんもそうだっけ?」

「葉石さんは……確かもう高3やった気しますね」

「なら多分だけどリアル最年少ってことになるよね、餅人間さん」

「全然気とか遣わなくていいからねー。ここダメな大人ばっかだから」

「でもよかったねー、肖くん。歳近い子来てくれて」

「いやー……逆に僕、年下と接すんの苦手なんですよね……。年上には散々囲まれてきてるんで慣れてるんですけど、いかんせん年下ってなると……。まぁでも、一歳しか変わらないんで、年上年下とか関係なく仲良くしてください、餅人間さん」

[ありがとうございます よろしくお願いします]

「でもそうよねー、肖くんって全然子どもっぽくないというかさー。ウチが中3のときなんてガキだったよ、ガキ。まだねるねるねるねとか作ってたと思うもん」

「ガキYOMOちゃん気になるなー」

「いやいや、僕も大概ガキですよ。いまだに野菜苦手で食べれませんもん」

「まぁ、まだ中3だからねー。大人になったらわかるよ。ウチもアラサーなってからナスのウマさに気づけたし」

「その『大人になったらわかる』て、よう言いますけどホンマなんですか? 僕、年々ダメになってきてるんですけど、野菜が」

「まぁそのうち変わってくるよ、味覚も」

「餅さん、Cicさんの他に好きな絵師さんとかいたりするー?」

「あっ、確かに。気になるー」

「予想しよ。んー、なんだろ。あんまパッと思いつかねーな。redjuiceさんとか好きそうじゃない? 俺あの人の絵大好きだわー」

「どっちかってーと海外絵師さんっぽい絵柄というかタッチよねー。あんま日本人のイラストレーターって感じじゃなさそう」

「自分の絵柄と好きな絵柄ってまた違うこともあるから一概には言えないかもね」

「ですねー。僕は好きな絵柄と目指す絵柄が全く一緒ですけど」

「肖くんは最初っから貫いてるよね」

[げみさんの絵はすごく好きです]

「げみ、さん……」

「あー……何か名前はどっかで見たことあるかも。調べてみよっと」

「なーるほど。あれだ。さっき言ってた『自分の絵柄と好きな絵柄が違う』タイプだ」

「いいですねー……」

「デジタルで描き始めた理由とかってあります?」

「いま中2で二年前から描き始めたって言ってたからなー」

「これ何で餅人間って名前なんですか? お餅好きなの?」

 はじめましての風通しの良さにあてられて、みんながみんな描く手を止めて質問攻めだ。もちろん楽しいのだけれど、置いてけぼりにしてしまっていそうだったので、

「あ、いちいち文字打つの面倒やったら全然マイク上がっていただいて大丈夫ですからね。話したくなかったら全然テキストでも大丈夫ですけど……」

強要ではなく提案として受け取ってもらえるよう、気持ち控えめに恐る恐るそう言った。そうすれば、しばらくの沈黙ののち、

「…………はじめまして」

生成りの布をそのまま指の腹で撫で下ろしたような、柔らかな摩擦を伴いながらも一本の生糸を通すような、そんな端正で華奢なおとが耳の裏をすり抜けていった。

「わーっ! 女の子だーっ!」

「おー、YOMOちゃんに続いて二人目の」

「やったじゃん。紅一点だったもんねー」

「一応、葉石ちゃんもいるんだけど……あんまし通話来ないからさー。餅ちゃん! これからも通話にいっぱい来てねーっ!」

「……あ、はい。ありがとうございます……」

「でも中2には聞こえないなー、声。なんか大人びてるっていうか」

「ねー、ウチより大人っぽい」

「そんな…………」

「肖くんも割と大人っぽいよねー。今の子ってみんなそうなのかなー」

「やー、大人しいだけっすよ。さっきも言うたように根本がガキですから」

「そんなん言ったらさー、俺が中学んときなんてもっとガキだったよ」

「改めまして……よろしくお願いします、餅さん」

「お気遣いありがとうございます、肖さん」

「『改めまして』も『お気遣い』も中坊の言葉遣いじゃないよぉ~」

「ホント二人とも大人っぽいわー。よく言われたりしない?」

「えー……」「えー……」

「ハモってんじゃん」

「僕、そんな言われたこと……あ、でも。そういや先生に言われたことはありますわ」

「でしょーね」

「いや『謝るのだけは大人顔負けやね』て言われました。そんときゃ確か期末の課題おもっきし出すん遅れたときやった思うんですけど『平素よりお世話になっております。この度は課題の提出期限に遅れ、さらには後日提示していただいた最終締切にも出せず誠に申し訳ございませんでした。忌引きや体調不良などがあったわけでなく、単に失念していたということで、わたくしの不徳の致すところでございます。誠に身勝手なお願いであることは重々承知しておりますが、どうか何卒こちらの課題を提出遅れとして受理してくださりますと幸いでございます』てな感じで」

「プロじゃん」

「社会人より社会人」

「『平素』とか『不徳』とか、もう政治家じゃん」

「ほんで先生からは『菊地くんはホンマ謝るのだけは一流やね。でもあかんもんはあかん』てなって、結局ゴネて提出できたんすけど。あ。僕、本名『菊地』いうんですけど……」

「え………………」

 餅さんの口から不意に間の抜けた声が漏れ出る。次いで、

「私もキクチ……」

なんて告白が飛び出た。別に珍しい苗字ではないけれど、なんだか…………

「えっ、すごーっ! 運命じゃんー」

そう、運命的な感じがした。これも何かの縁、と将来のわたしがどこか得意げに語っている様が浮かんでくるような気がした。

「えー、ホンマに? すっごい偶然や……」

「ええ、ほんと偶然……」

「え、てかさてかさー。餅ちゃんも関西弁じゃないー?」

「え、マジ?」

「あ……関西です……」

「いやホンマや、マジか。ここ標準語しかおらんかったからありがた~」

「やったじゃん」

「もしかしたら同じ学校の先輩後輩だったりして……。何県?」

「僕は兵庫ですね。答えたくなかったら全然ノーコメントでもいいですよ、餅さん」

「いえ……大丈夫です。私は奈良県です」

「あー、ならさすがに違うかー」

「でもそれでも結構な奇跡だけどねー」

「それにここにいるってことは同じ絵師を好きになったってことだし」

「いやホンマですわ……。今後ともよろしくお願いいたします」

「また社会人出てるって」

「はい……、こちらこそ」

「てか餅ちゃんさ…………」

 といった具合に餅さんを主軸に据えた、けれどどこか置いてけぼりにした話題で通話の時間は転がっていった。ちょうど煌《きら》めく映画のフィルムを巻き取るみたく忙しなく。たぶんだけれど誰一人として手を動かしていなかった。当然わたしも描いていなかった。ただおしゃべりが楽しくなってしまったというのが一つ。餅さんの描いた作品を受け止めるのに精一杯だったというのが本音。そうこうしているうちに母親に入浴の催促を受けたので、「……すんません、僕ちょっと風呂呼ばれたんで落ちまーす。またー」

と言い残して「あとは誰かが勝手にどうぞ」と言わんばかりにキレよく通話を抜けた。

「ほーい、お疲れさんー」

「おっつー」

「あっ…………」

 間際で餅さんが何かを言いかけたのが聞こえたけれど聞き届けるよりも先にクリックする方が早かった。また今度ゆっくり話せる機会があれば、今度はもっと深く絵のことについて尋ねよう。何か明確な答えを期待しているわけではないけれど、どういう心持ちで、あの絵に挑んでいるのか、それだけは知りたい。それがわたしと同じでも、正反対でも、はたまた全く別次元のものであっても、わたしの心を大きく揺さぶる何かになる…………そんな予感が、頭の中で鳴り止まずにいた。

 耳の穴にすっぽり入り込んでしまった有線イヤホンのイヤーピースを捻りながらスローモーションで抜き取ってやれば、先ほどまでの談笑がとんと嘘だったかのように、空気も時間も冷えた自室が途端にだだっ広く感じられた。そんな氷穴を背に千鳥足で廊下を抜け、階段を下った先にある風呂場へと体を運んでいった。扉を開けても誰もいない。先に風呂をあがった母親のいた痕跡…………脱衣所のストーブの温もりだけがそこには残っていた。ドライヤーの熱もあるかもしれないか、と思い至る前に脱衣を終えた。浴室に入る前の裸身はどうしてこうも頼りなく感じられてしまうのだろう。むしろ浴室の中ではそんなことを感じないという方に疑問を持つべきか。

 わたしの体はひどく骨ばっている。シュルレアリスムの金属彫刻を思わせる肋骨に触れてみたところで別に音が鳴るわけではない。嫌というほど確かな感触には未だ慣れない。突っ張った皮膚も体毛も異物感が拭えずにいる。この薄皮一枚を境に体内と体外とを分けているからだろうか。体内を埋め尽くす骨や筋肉、血管や神経の一本一本すらも気色が悪く思えてしまうのはなぜだろうか。わかりきっているくせに、わたしは見ないふりをして。

 湿気の詰まった浴室。ささくれた荒肌を侵すみつぼの温度を確かめながら、シャワーの冷水から温水へ戻るのを待っている間に、風呂をあがったら何をしようか計画を立ててみる。通話に戻るか。床に就くか。アイスを食べてもいいかもしれない。確か冷凍庫にサクレがあったはずだ。そのままダラダラして夜を抜けてしまうのもいい。可笑しいほど短い髪を掻き上げながら、そんな思いつきは水に流してしまった。

 皮膚を削ぐように落ちていく水流の行方を思えば、不思議と自らの背筋や体幹に意識が向いて、誰に見られるわけでもないのに無い襟を正す思いに駆られる。いっそ酸性雨であれば諸共に溶かして流し落としてくれたのに。けれど、どこまで溶かせば、この体はわたしのものでなくなるのだろう。排水溝に抜けた髪が流れていく。あれはもはやわたしの体とは言えない。過去形の体。ならば今こうして洗い流されている表皮の垢もそうなのではないか。生き物は寝る間も惜しんで代謝というやつを行なっている。多少の周期はあれどその変化は不可逆であり進行形だ。絶えず体は生まれ変わっている。そんな曖昧な身体のどこに現在を認めてやればいいのだろう。今はとりあえず、肌にまつわる痛みと喜びとを、そのよすがにして仕舞っておこうと思う。拙いけれど地獄に垂れるのも一本の糸なのだし。

 泡にまみれて刻一刻と生まれ変わりゆく自らの体は宙ぶらりん。いくらか重たく感じるのは、わたしがいつも乾いているから。腕や指には点描画みたく毛と穴とが集まっている。それらを摩擦でならしてしまえたらと思って、必要以上に強く速く頑なに掻き続けていた。気づけば泡は揮発して干潮時みたくなっていたので、慌ててシャワーに手をかけて潤いを求めようとした。けれどそれは逆効果とも言えて、瞬く間に肌から泡という泡が洗い落とされてしまった。体を一通り洗い終えてから流すまでに呆けていた時間は考えたくもない。 その無駄な時間を取り返そうと大袈裟にシャワーをくねらせる。全身にとぐろを巻くいかめしいシャワーホースはスーツで、艶やかに照らされて光るシャワーヘッドは文字通り頭で、一糸まとわぬわたしと踊ってくれているような心地がした。いっとき、社交場だった。

 体にまみれた水滴を勢いよく払い落とす。空を切る、という言葉は本当だと思う。だって空気は途方もなく広大なのに、素早く腕を振り下ろしたときだけは真っ二つに切り分けられたような気がしてくる。そこに開いた真空が自分だけのもののような気さえしてくる。飛び散った水滴の行方はさっぱり。わたしの気分もさっぱり。この季節は湯冷めが怖いので、とっととドライヤーを浴びて髪もさっぱり仕上げてやろう。無骨な硝子をこじ開けてすぐさま飛びかかってくる空っ風を避けるように、やかましい手つきでバスタオルを引っ張ってきて全身をくるんでやる。つむじから爪先まで、一刻の猶予もない。

 暑いのか寒いのか分からない時間を潜り抜けてから、わたしはいつものルーティンワークとしてスマホを手に取った。ディスコの通知が来ている。あまり目にかからない通知なので即座に通知を開いてみれば、何とも突拍子もない文面が目に入る。

[はじめまして、先ほど通話にいた餅人間です。たくさん近いところがあって驚きました。もっとお話ししたいなと思いました。だからDMさせてもらいました]

 風が吹き抜けるのを、終わりか始まりかに喩えられるなら、今は始まりに喩えてみたい。それはわたしを置いて、きっと未来に吹くものだから。点々に並べられた言葉には、そういう緑の風合いがあった。わたしはすぐには返信せずに、画面には目もくれないまま画面をロックして、画面の中にその言葉を閉じ込めておきたくて、けれど零れ落ちてしまいそうだったので、画面の表を胸で蓋をして、ずれ落ちてしまわぬよう、慎重な足運びで二階の自室まで持って帰ることにした。たまたまだけれど…………それはゆめのようだった。

第一話はここでおしまいです。
第二話の更新まで今しばらくお待ちください。