ハロー、モーニン

 目を開けたまま迎えた朝は夕方よりもお腹が空いている。夜がな椅子に座っていただけなのだけれども、人間という生き物は、起きているだけで体力を消耗するらしい。恋みたいな日差しのかけらを拾いながら、木曜日を始めるべくハンガーへ手を伸ばす。針金の捻れたところに溜まっている埃が、暗い部屋の中だと目立って仕方がなかった。生成色のシャツに袖を通せば、夜をいだいたままの肌が、ひどく乾いていることを実感する。きっと月の光が奪っていったのだろう。海にも水がないのだし。

 省エネな身支度を済ませたあとは、なんだか朝を追い越せそうな気がしたので、いつもみたいに冷蔵庫へは向かわず、そのままスニーカーを履いてカフェへ赴くことにした。行く当てはなかったけれども、駅前の方面へ向かえば一軒くらいは開いているだろう。と。思った矢先、筆記体のカフェが目に飛び込んできた。OPENの文字まで筆記体。この無敵な時間を彩るにはちょうどいいと思って、桟橋みたいな木造りの階段を上がることにした。ぎしぃ、と扉を押し開けた。

 どこか眠たげな店員の声に導かれて、古ぼけた四人席に腰を下ろす。肘置きに肩を預ける。たぶん手作りのメニュー表を手に取る。モーニングはトーストかパンケーキの二種類しかない。一分たりとも迷わずに、パンケーキの方を注文した。パンケーキとサラダ。インクの染みも心なしか風に踊っているみたいだった。それくらい軽い字面をしている。いつもの重たい朝は、まだ私に追いつけていないみたいだ。時間が私に味方してくれている。それで私の心は今、軽くなっているのだ。

 注文が届くまでの間はひどく退屈だったけれども、パンケーキの赤い渓谷みたいな匂いが立ち込めるにつれ、この期待に胸を膨らませる時間がいつまでも続けばいいのに、なんてことも思った。張り詰めた風船の気分だった。ちょこん。と置かれた皿には、小ぶりな円柱のパンケーキが、ベーコンと目玉焼きとを頭に被って、どしん、と構えていた。サラダはバランみたいにただ添えられていた。

 やけに細身のフォークとナイフとを両手にとって、私はそのパンケーキへとナイフを刺し込んだ。するとどうだろう。冷たいナイフの先を見れば、パンケーキに触れた箇所から、薄い湯気が滲み出しているではないか。もちろん持ち手にその熱が伝わってくることはないのだけれども、当たり前の自然現象が、当たり前の日常の中にふっと現れる瞬間、なんて世界は素晴らしいんだ、なんて私は思ったり思わなかったりする。今日は思える日だ。なぜなら今の私は無敵だからだ。誰にもこの時間を止めることはできない。いや、欲を言えば止まって欲しいのだけれども、それはあくまで長さの話で、私が言いたいのは勢いが止まらないという話。向かうところ敵なし、というやつだ。

 すとん、かかん、とナイフの刃はさらに落ちる。なんて柔らかい。幾何学的な円柱型の造りからは想像もつかないほどに、生地は刃先の一本一本を丹念に包み込み、むにゅっ。と離さないように切られたそばから両手でその刃を抱きしめようとしている。それに呼応するようにパンケーキ全体が上へ横へと揺れ動いて、まるで一つの生き物を…………食事中に思い出すものでもないけれども、カタツムリのような面白さがあった。けれども今の私は無敵なので、そういう邪念はすぐにうっちゃって、目の前のパンケーキへ視線の末端まですべてを注ぐことにした。

 次に切るのは目玉焼きの乗った箇所。ここは難所だ。目玉焼きが布のように一度バランスを失えばズルズルと皿まで滑り落ちていってしまう。それをいかにパンケーキの上で生き残らせるかが勝負なのだ。無敵な時間にふさわしい完璧なカットを……………………したかった。

 思いのほか卵黄にとろみがあり、白味部分に刃を押し当てた瞬間から、とろとろとマグマのように流れ出してきた。それだけならまだいいのだけれども、その卵黄に包まれた刃先は摩擦をいくらか失っており、白味部分を切るのにも二回三回とかかってしまうほどだった。これが致命的で、切ろう切ろうと引っ張ってしまった目玉焼きは、ずるずるずるとパンケーキの山から滑り落ちていってしまった。皿にはマグマが氾濫していて、それにまみれて黄色く染まった白味が散乱していて、さらに目玉焼きが崩れたことによって、支えを失ったベーコンがずれ落ちてしまっていた。

 もはや盛り付けも何もない。目玉焼きもベーコンも少しずつ切り分けてパンケーキと一緒に併せて食べ進めていこう、そう、思っていたのに。けれども、こうなってしまった以上は仕方がないので、私はフォークを一本の短い串に見立てて、かろうじてパンケーキ上に残った半月みたいな目玉焼き、はみ出して寝転がっているベーコン、そして三分の一ほどの大きさにまで齧り取られたパンケーキ、ついでに横に添えてあった草色のレタス、これらをすべて一緒くたに刺し貫いて、下手なケバブみたいな形のまま、ぐわっと一口に食べてしまうことにした。口の中で暴れる食材たち。諦めの味は、どこか映画館みたいだった。ただ浴びる、ただ飲み込む、そんな心地。

 食器を置いて窓を見れば、空はすっかり朝になっていた。少し、のんびりしすぎたかな。

このおはなしはここでおしまいです。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。