さんざめく人熱れを抜けて駅の底へと辷り込む。しゃがれた風は頬と鼻とを掠めながら吹きすさぶ。こんなにも乾いているというのに、空は依然として潤んだ光を湛えている。開け放たれた各駅停車。急行待ちの列を分け入って、萩色の優先座席と冷えた腿との隙間に、綾織りのコートを挟んで息をつく。荷物は少ないのだけれども、季節柄、どうにも厚着になってしまうから、外へ出るだけでも体力を消耗する。だから電車に揺られて一駅だけ寝過ごしてしまったのも仕方のないこと。
踏切越しに佇む一番線。幸いにも待たずに渡れたし、さらに程なくして「参ります」との構内放送が響きわたったから、待ち合わせの時間には遅れずに着けそうだ。不幸中の幸い、なんて句がよぎったけれども、すぐさま風の手にさらわれて去っていってしまった。先ほどは草原のような心地で夢見る間もなく安らかなひとときを過ごしてしまったため、今度は吊り革を握りしめて立つことにした。たった一駅分の我慢だ。数分とない。日頃から快速の中の鞄という鞄に拉がれるのを耐え忍んでいるのもあって、がらんどうの各駅をひとり揺られることが、この上ない贅沢のようにさえ感じられた。ただ起き抜けだから、というだけかもしれないけれども。
田園の眺めを過ぎれば目的地の駅だった。競走馬みたく扉の開くのを待ったのち、そのまま転がるようにして改札口を潜り抜けた。携帯に通知は来ていない。はぁ。と白んだ吐息が、音となって溶けていく。いつもの道順を辿って待ち合わせの喫茶店へと足を運ぶ。扉を押したら季節外れの風鈴がお出迎え。
「いらっしゃいませー、一名様でしょうか」
「いえ、このあともう一人」
かしこまりました、と四人掛けの席へ案内される。通りの見える窓際の席。そういえば一回目の待ち合わせも、この席だったような気がする。窓際の席と一口に言っても、他にも複数あるのだから定かではないけれども。おぼろげな記憶を振り払い切れないまま、あの日と同じアイスコーヒーを注文した。それから外套を脇へ置いて、一人で占めるには広すぎる席で、けれども我が物顔で、どさっと座り直した。袋を破ってお絞りを取り出す。指先から縮こまるのを感じながら、手の平と甲とを満遍なく拭き回す。平らなガラス張りのテーブルはいたく日差しを反射しており、この乾き切った目の奥を鋭く大雑把につんざいている。
「お待たせいたしましたー、アイスコーヒーになります」
「どうも」
「伝票失礼します。ごゆっくりどうぞー」
言われるまでもなく、赤黒い珈琲の中でゆらゆら漂って回る氷にいまを重ねて、ゆるやかな時間の流れを口に含みながら、ごゆっくりとアキヤマの来るのを待つとしよう。どうやら彼女はまた寝坊のようだ。今朝方に送った起床の確認ラインには既読すら付いていない。毎度遅刻するのなら、それはそれで気が楽なのだけれども、なんと起きているときは前日の夜中から待機して、待ち合わせの時刻よりも一時間ほど早く来ているというのだから、こちらもうかうか遅刻していられないのだ。この喫茶店は向こうのテリトリーだ。出不精な彼女でも徒歩圏内の喫茶店には顔を出してくれる。さしづめ私は来客だ。であれば少しは歓待してほしいところではあるけれども、今回は私が先に着いただけ、ということで。
引きも切らず、とまではいかないまでも、扉には断続的な人の出入りがあった。涼しげな風鈴の音がそれをしらせてくれた。忙しなく飛び回るバイトの店員を横目に、ひどく対照的に私は蜜蜂の気分で珈琲を啜っていた。味は普通。冷えは一級品。夏に飲めば絶品なのだけれども、生憎の寒空。一気に飲み干したら、たちまち腹を下してしまうことだろう。だから、今という待ち時間には最適な注文なのだ。ちょうどいい目慰みになってくれる。手持ち無沙汰にならない程度に、この尖った氷山は回り続けてくれる。溶け出してしまっても構わない。味には大した期待がない。
「いらっしゃいませー、一名様でしょうか」
何度目かの定型文。なのだけれども、
「あ、二名で。一名が先に来てると思うんで、そこに合流したいですっ」
聞き慣れた早口が被さったことを、自分でも驚くほど俊敏に感知できた。
「…………お連れ様は……」
「すいません、私です。ここ案内してやってください」
困り果てているバイトを見かねて、一目散に彼女のもとへ歩み寄って手招きをする。
「……ごめん遅れた!」
「全然。私も結構ギリだったし」
「それ、くれるの?」
予想以上に早い来訪に虚をつかれたせいか、グラスを持ったまま席を立っていたのに気付く。ぎこちない笑顔を向けて指をさす彼女。別にくれてもいい、なんて不愛想な本音を隠して、私は大袈裟に首を振ってみせた。
山でも登るのかというほど量感のある背嚢リュックを携えながら、私の顔など見向きもせずに、彼女は滑るように窓のそばまで顔を近付けて、窓から見える通行人の特徴を簡潔に述べてくれた。その音を私はテキトーにあしらって、そのまま目の前の珈琲へと視線を注ぐ。好奇心旺盛、とはまた違うと思うのだけれども、彼女の眼差しは、どこか浮世離れしているのだ。見ているものこそ同じであれ、まるで違う世界に生きているよう。いわゆる芸術家肌というやつなのだろう。常人のそれとは違う。
「さっそく、今日の読んでもらいますかっ。あ、その前に注文か。すいませーん! メロンソーダとフレンチトースト一個ずつでー。氷は抜きでお願いしま…………」
「店員来てから注文しなよ、まったく……。あとそんな一気に言っても訊き返されるよ。もう一度よろしいですか、って」
注文一つにしても賑やかなのだ。彼女のそばにいれば退屈することはない。きっと彼女の世界には退屈がないのだ。私は名前も知らない他人を見たって、なんの感慨もないのだから、おおよそ私の世界には退屈がうろついていることだろう。そういう意味でも、私と彼女はまるで違う。それはこうした些細な言動だけでなく、もっと大きな違い。
「言ってたやつっ、なんとか書けたから……はいっ、これが本日の原稿でっす!」
「あ、すいません。こっちにメロンソーダ氷抜き一つと、あとフレンチトースト単品で。はい。お願いします。はい、ありがとうございます。はい」
手早く彼女の注文を終わらせて、彼女の差し出す原稿を手に取る。ざっと五十枚はあろうか。清書と思しき用紙の下からは、乱暴に黒く塗り潰された紙切れが、蓄えた炭の平らかで滑らかな光を覗かせていた。私にはこの紙切れの方こそ宝玉のように感じられた。
「ちょっと待って、清書は何枚?」
「三枚!」
「じゃあ残りは……」
聞くまでもなく、この三枚を書き上げるまでに積み上げられたしたがきの山だ。何遍も何遍も書き直しては塗り消して…………その結晶がこの三枚の清書ということだ。
「いや、今回ね。そんな時間かからんと思ってたんだけど、あーでもないこーでもないって書き捨ててたら、気付けば三が限界ってくらいの長さになっちゃて」
「三が限界って?」
「いやさ、さっきまで書いてたの。そんで待ち合わせの時間までに間に合うか、どうかってくらい切羽詰まっててー、でっ、中編書く時間はなかったから、おとなしく短編こさえたってわけ。短編っつっても超短編だけど」
「もしかして……オール?」
「そ。オールしちゃいました。なんせみすず先生に拙稿をご覧に入れてもらうんですから。しかも都会の街から遠路はるばる場末の喫茶店にお越しいただいてまで、そりゃあ夜の一つや二つ、越えてみせるってもんですよー」
先生というなら、むしろ作者である彼女の方だと思うけれども。私はただ読ませてもらう立場なのだし、ただの友人として読ませてもらうだけなのだし、そもそも彼女はもう少し自信を持つべきだとも思う。私の手に挟まる清書を赤子を抱き上げるように、そっと彼女は胸元へ手繰り寄せ、ぴしと端の揃うようつかねてから改めて、私の方へ卒業証書の授与と同じ姿勢で真っ直ぐに原稿を渡してきた。
「ありがと。じゃ読ませていただきますね」
「どうぞっ、忌憚なきご意見をば!」
その原稿に目を向ける彼女の姿は、語気の軽さに反して、重々しい緊張に包まれていた。私も相応の緊張でもって応えて、この玉稿に臨むことにした。彼女が私に対峙するのと同じく挑むような気持ちで…………
幽邃な引き明けを覆い隠す様に潸々と降り頻る甚雨が何時止むのかと哲治は潤び草臥れた畢色の長襦袢をとんと払って一糸惑わず波頭を揃えて邁進する穂波の行く末を鉄塔から延びる電纜に遮られながらも案じて居た。
俯せに蹲う哲治に雪子は非道く憐憫を寄せて居り其れは女房の須く果たすべき世務の範疇を優に超越する慈愛にも似た非人道的な慕情を今尚伴侶に捧げて居るのであった。
其れは決して異常ではなく妥当であった。此の何月か哲治は只管に原稿へ眼を落とし肘を結晶の如く机上へ突き刺し腰を石塊の様に重らせ遮二無二手を振り回しては其の書いた用紙を黒く塗り潰して放し又新たに真白い原稿用紙を引っ張り出しては同じ事を繰り返す謂わば小説の物怪と化して居たのであった。
窓から覗く佇花の実が風雨に依って一つとして残る事なく末枯れた枝先を然し意気地無く伸ばして居るのを雪子は眼前の哲治の蹲う惨めな姿に重ね有ろうことか陶酔して居た。
此れこそ非人道的ではないかと糾弾する者も有ろうが否である。寧ろ雪子は天涯孤独の象牙の塔にて幽棲の身である哲治の事を只一人見守り介助する事の出来る今日の身分を天上の何とも比する事の能わぬ程の極上であると思って居り其れを今当に天嶮の巓より望む遠景の如く明顕に目の当たりにした此の状況を永久としたく独占欲求が働いたのであるのだから此れは極めて人間的欲求であり又人道的と云えるのではないだろうか。
哲治は還暦を迎えても尚矍鑠とした丈夫であったが然し百代の過客の如き流れには抗えず又作家然とした日頃の不摂生が祟って今日には骨立の身形に堕してしまったのである。 雪子は其れらを止めも咎めもしなかった。一心に哲治の眼差す世界を只信じて居ただけなのである。雪子は哲治を愛して居るのでは無い。哲治の手に依って織り成される紋様こそが堪らなく大事な物なのである。其の哲治も最早原稿には向き合えないかと思われた。
然し雪子の信じた通り哲治は筆を執らずとも尚此の世界を眼差すのである。蘓色の穂波を大窓を越して眼差して居る。
「雪子」
「何で御座いましょう旦那様」
「儂の眼前に広がる儂の眼差す此の素敵な物を一体如何して書かずに居られるだろうか」
「ええ旦那様。して拙は何を致せば」
「儂は疾うに筆硯に浴する身分でなかった。此の手は道具であり此の目は世界であった。其れらも最早朽ちてしまおう。されば雪子お前が儂の目と成り手と成り世界と成ってはくれんか」
「申し訳御座いません。恐れながら拙は旦那様の世界に成れはしません。拙には既に拙の世界が有るのですから。其れでも大事なければ拙が今一度筆を執ってみせましょう」
哲治は世界の終わる時まで大変素敵な物を眼差して居た。拙い紋様を書いては消す雪子の新芽の如く丸まった背中を眼差して居た。
「で、どうでしょうか」
彼女は挑むような顔つきで、腕を拱いたままテーブルの上に乗せ、こちらの反応を前屈みに窺い尋ねてくる。その姿はどこかぎこちない。彼女のうちに潜む猛獣がびしゃっと人の鋳型に押し込められているような、サーカスのような可笑しさがあった。
「そうね。まず全体的な感想としては、何となく分かるけれども……って感じ」
「それでいい」
「で、こっからは質問攻めに入らせてもらいたいわけだけれども、それでもいい?」
「いい」
全部は教えないけれどもね、と付け加えた彼女の目には、しかして確かな意思と信念とが宿っていた。つと私は鞄から携帯を取り出し、それから大仰な国語辞典を、小石みたく丸まった氷の浮く珈琲の横へと置いた。
「幽……邃……静かってことね」
「ちーがーう。夜明けの奥行きってあるじゃない。あれを表すには幽邃しかなかったの。単に物静かなだけだと情緒ってもんがないじゃない」
彼女はいつもこうだ。この世にごまんとある言葉の中から、その対象を言い表すのに最も適した言葉を掬い取ってこようとする。それは得てして見慣れない単語や難読漢字の多用に繋がってしまうわけだけれども。
「まぁ確かに幽玄な趣はあるよね。同じ幽だし。そんで、潸々……これは涙に使う形容じゃないの?」
「間違ってはない。狙ってるし。これは涙みたいにさめざめと降ってるって描写のつもりだったから。けど、雨にも使えるはず」
「なるほどね。降り頻る、はいいとして……じんう……ひどい雨ってことか」
私が先ほど振ってみせた何倍もの勢いで、彼女は首や顔を目一杯に使ってノーを示す。私の平凡な思考など、とうに対策済みらしい。
「ひさめ! 『じんう』でも間違いじゃないけど、ここでは『ひさめ』なの。大雨とか豪雨って書くより、ずっと優しい感じがするでしょ?」
「まぁ……そうね。ほとび……草臥れ……畢……色?」
「ひつ色」
「…………そんな色ないんだけど」
「ないから書いたの。哲治の着てる長襦袢は、その色でしか表せないの」
彼女の言葉は彼女自身にしか理解できない領域にまで踏み込むことがある。例えば今回の色がそうだ。自分の頭の中にイメージがあるのなら、それに近しい色を探してくれば、あるいは初めから既存の色名をイメージに反映させれば、一般にも浸透した色で言い表すことができる。だというのに、彼女はそれでは飽き足らない。国語辞典に載っているような既存の語彙では、彼女のイメージをそっくりそのまま写し取るには不足があるらしい。確かに既存の語……漢字や音を用いてはいるのだけれども、それが色を表すために使われたことのないものであったとしても、彼女はそれをイメージとして、モチーフとして、誰も気付かなかった場所から掬い取る。
「畢っていうのは、つながりを捨てないままの終わりなの。ずーっと続いてきた、けれど終わってしまうもの。そういうニュアンス。だから畢生ってのは人の一生。生まれてから死ぬまでのつながりを持たせたままの」
「で、現実に近い色で言ったら何色、これ」
「うーん。考えたことなかったなぁ」
汚れた黄土色とかじゃないの、と先ほどまでとは打って変わって、いやに自信なさげに彼女は声をくぐもらせる。そう、彼女の中ではもう畢色という言葉があるのだから、それをわざわざ別の言葉で表す必要などないのだ。彼女にとって、言葉とはそういうものだ。
「電纜、ね。これ前も出てきたから分かる」
「さっすが。なら俯せも分かるっしょ」
「うん。蹲……は『つくばう』か。『ひどく』が『酷く』じゃないのは?」
「そのあとの『非人道的』に掛けたかったからかな。道理に外れてるって感じ」
「言われてみれば。確かに非道ってのが何の詰まりもなくスルッと入ってきたわ」
「でしょー?」
それからも細かい表現に関して質疑応答を繰り返すこと一時間。ようやっと文章の尻まで辿り着いた。佇花なんて花はなくて、橘の当て字だということ。巓の方が頂よりも見渡す景色の広がりを感じられるということ。独占欲とするのでなく独占欲求としたのには、これが雪子のいだく根源的な欲求を表すのに相応しいなんて彼女なりの論理があるということ。す色なんて色もなくて、日に照らされた眩しい穂の色が、何か生き物のよみがえるイメージと一致したらしいということ。雪子が筆を執ったのは哲治への憐憫からだということ。哲治の目は視力を失っていたということ。
色々なことを教えてもらって、私はつい数時間前よりもよっぽど賢くなれた気がした。半分ほどは非現実の造語の知識だけれども。
「なぁるほどね。哲治は初めから見えてなかったのか。なんで天気悪いのに綺麗な景色見えてるんだって思ったら、そういうこと」
「だから『見て居た』じゃなくて『眼差して居た』でしょ?」
「ほんとだ。ただ単にカッコつけてただけってわけじゃなかったんだ」
「失礼な。ちゃんと考えてますよーだ。他にも……原稿を黒く塗り潰してたとこあったでしょ。あそこも消して書き直せばよくねって思うでしょ?」
「それはそう…………けど、哲治は見えてないから……」
「そ。書いた文字の位置が正確じゃないの。だから一文字消すんじゃなくて塗り潰すの。紙を替えて全部いちから書き直しってわけ。人の背中をなぞって文字を伝えるイメージ。まぁ哲治のことだし、真っ暗闇の中ってわけじゃないだろうけどもね」
彼女の持ってきた下書き原稿を思い出す。彼女は単に気に入らなかったら一からやり直すタチだ。だから哲治とは訳が違うのだけれども、やはり眼差しているものが決定的に人とは違うのだと、彼女の思索の深さを聞いて思い知る。いわゆる天才なのだろう。
「けどさけどさ。最後は雪子の背中、眼差してるよね。これは?」
「雪子のことだけは『みえて』たんだよ。いや、正確には見えてないんだけど」
「雪子の姿だけはイメージと現実とが寸分違わず一致してたってこと?」
「大雑把に言えば、そう。けどちょっと違って、哲治のそのイメージは、常に雪子の方を向いていたから、誰よりも雪子のことを眼差していたから、雪子のありのままの姿を脳に映せていたってわけ」
「それも愛ゆえにってことか」
「愛とはまた違うんだよなー」
「愛がなきゃ結婚までいかなくない?」
「恋愛で喩えるなら、この二人は決定的にすれ違ってんの。哲治は雪子のありのままを愛しているのに、雪子はそれを哲治の見てる世界《もの》と比べて、それこそ哲治自身のことより愛するほどに、そんで自分のことを卑下してる。でも、哲治は雪子の愛するものが、この現実に広がる素敵な物だって勘違いしてる」
「お互い愛してるものが違って、それでいて両方が自分じゃないと勘違い……」
そこまで思い至って、私は一つ、どうしても彼女に言ってやりたくなった。
「……さすがに言葉足らずだって」
暗示こそされているとはいえ、哲治の目が見えていないことなんて、本文のどこにも明示されていない。全部を教えたら小説ではないという意見には賛同するけれども、ここまでひた隠しにされていると、それはもはや何も言っていないに等しいのではないだろうか。
「でも、今こうして説明したら分かってくれたでしょ? それありきで書いてるんだし」
「それは……そうだけどもさ……」
それは読み手に不誠実だ、などとは口が裂けても言えなかった。彼女にとって読み手とは私一人のことであり、この原稿用紙三枚だって、その下に息を潜ませる下書き用紙の数十枚だって、それらを書き上げるために費やした数週間ほどの歳月だって、すべて私一人ぽっちに読ませるための通過儀礼なのだ。そのことは二度目のときに教えられた。
そして何より、私に対して、これほどまでに真っ直ぐ、誠実に向き合ってくれる態度が他にあるだろうか。それを当事者として、一人ぽっちの読者として、嫌というほど痛感しているのだから、不誠実という言葉を口にすることは、できなかった。
「ミスズに読んでもらって、分からなかったとこはわたしが逐一解説したげる。どうよ、完璧でしょ? 作者直々の解説なんだからね」
「けどさ。小説って、もっと開かれてるものじゃないの? 売ってる本はもちろん色んな人に読んでもらいたいって思いがあるだろうし、そうでなくても未来の自分が読み返すことも考えて分かるように書くと思うんだけれど。ほら、現文の授業で、なんか言ってたじゃん。世界という広い海原にさ、たった一言を瓶に詰めて、それを見えもしない遠くの島にいるかもしれない読者に流す。それこそが小説であり文学だ、って」
「何も海に放たなくても。わたしの島にはね、もうミスズが漂着してるの。ひとりじゃないんだから。そばにいる人に向けて手紙を手渡しするのも、別に悪いことじゃないでしょ?」
言葉に窮して思わず俯いてしまう。けれども、どうして彼女はそこまでして、私に読んでもらうことにこだわるのか。その訳を今更に尋ねたら、彼女はなんの恥じらいもなく、
「そりゃ、ミスズの見てる世界が好きだから」
どこかで読んだ言い回しを口にした。
思えば…………彼女は初めから、私がどう読んだのかを、神経質なほど気にしていた。初めは客観的視点を要されていると思って、そのままを述べれば、彼女は喜んでくれた。私はこんな素人の感想程度で、これほど気難しい文章を書く作家様が、満足できるのだろうかと疑問を抱いていたけれども、今にして思えば、それが正解だったのだろうか。忌憚なき意見、なんて言葉の意味も知らぬまま、多少の気遣いは込めておこうと思っていたのだけれど、けれど思っていた以上に、ずっと素敵な作品を渡されて、私は気付けば自分でも何を言っているのか分からないくらい、勢い任せの一方通行な感想を吐き出していた。
それを彼女は大袈裟にも世界と称して、あまつさえ好いているのだと言う。その気持ちを無碍にすることはできない。とはいえやはり抽象が過ぎるので、いまいち要領を得ないのも許してほしい。言葉足らずなのは小説の中の世界でだけにしてほしい。
「……けどさ、じゃあさ。なんで好き?」
それがどういう類の好意であったとしても、まずはその理由や動機を尋ねるのがマナーというものだと思う。好意は好意的に受け止めなければならない、なんて決まりはないけれど、好意に限らず相手の気持ちというのは、無視することも捻じ曲げるようなこともしてはいけないだろう。それが自身に向けられたものであればなおのこと。
「うーん。……わかんないけど」
彼女の言葉はいつだって力強い。言葉選びが、という意味ではなくて、もっと根本的に芯の通ったものだという意味。要は自信と持論に裏打ちされているのだ。そんな彼女から「わかんない」なんて気弱な、あるいは簡単な、急ごしらえな言葉が飛び出てくるとは思わなかった。いや、彼女に「わかんない」ことなんて今までなかったような気さえする。不思議と安堵を覚えてしまうのは私が弱い人間だから。彼女は弱音を吐くように続けて、
「ミスズは素直に入ってくれるじゃん。わたしの文体って硬いから、他の人に読ませちゃすぐリタイアよ。今まで誰にも読ませたことないけど、たぶんきっとそう。わたしの文章なんて誰も」
「そんなことない。世界には何十億って人がいるんだし、日本人だけでも一億人。うちにだって数百人はいる。そんだけいれば、一人くらい、いや二人か三人くらい、興味本位でも読んでくれる人はいるよ」
「興味本位って、それって目を通すってだけなんじゃないの」
「苦戦しながらも頑張って読んでくれる人って意味。まだ何も見えてないけど読み進めていけば何かあるんだろうなって好奇心で読んでくれる人。一人くらいはいるでしょ」
「その一人がミスズじゃ、だめ?」
…………これは私の失策だ。一人なら既に私という読者がいて、彼女はそれに満足しているという話だったのに。
「とにかくわたしは、他の人に読んでもらおうなんて思ってない。わたしとミスズ、二人だけの文章で構わない。これは決めてるの」
「自信がないってわけじゃないんでしょ? あんた、実際それなりの文章書けるんだし」
「それなり……。まぁプロ並みじゃないですけれども。ともかく、答えるなら、イエス。何日もかけて、自信を持って、ミスズに読ませられる、読ませてもいい文章をこさえてる」
ならどうして、そう返す寸前。彼女が深く息を溜め込んだのを見て、矢継ぎ早に何か言いたげな表情をしているのを見て、私は口を噤んで彼女を見守ることにした。
「だって、それじゃ届かない。わたしは読者なんてアヤフヤなものじゃなくて、あなたに届いてほしいの。大衆向けって言うんだろうけども、そういう広く浅くじゃ、わたしの想いは届かない。そういう小説があるのは全然いいけれども、わたしはもっとあなたを眼差していたい。あなたに、貫かれていたい」
あなた、はきっとどこにもいないだろう。この先いつかどこかで見つかるものでもないのだろう。ありもしない蜃気楼に、それでも声を投げたくなるのと同じ。彼女は夢を見ている。けれどそれは何も彼女が特別なわけではなくて、むしろごく普通の、彼女にしてはひどく人間らしい、もっともらしい心の顕れに違いなかった。私は彼女の夢になることはできない。彼女を照らす星の光になることなんてあるわけがない。正直、彼女のことは全然わからないことだらけ。けれども…………
「だったら言うけど、違うよ。それだったらただの手紙でいいって話じゃん。だってのにひとが、あんたが、なんで小説を書きたがるのかって言ったら、そりゃだれかに届いてほしいって思ってるからでしょ? そこんとこ否定しちゃ、あんたの文章を、こうして時間かけてわざわざ読みに来る価値が、うんと落ちちゃう。なんなら県内だから着払いの方が交通費よりも安く済むだろうし」
じぶんの価値を貶めるのだけは、違うと思う。卑下とは違う。明確な冒涜だ。彼女自身への冒涜にあたる。
「あんたの掬い上げた言葉はさ、これまで生きてきた誰かが何遍も何遍も口にして、文字にして、こうして今に残してくれたものなんだから。あんたはそれでも足りないって言うけれども、けれども、あんたは一度だって、語意を無視しなかった。意味を尊重しつつ、伝わりづらい表現を毎度生み出してってた。音や響きだけで造語を作ってもよかったってのに、あんたはそれをしなかった。それはどうして?」
「それは…………」
「その誰かに、自分もなれたら、なんて思ったからでしょ。作家は言葉を使う。何も言葉じゃなくていいものを、必要以上に捏ねて、言葉にする」
「……言葉は、わたしの世界だから。わたしには、それしかないから」
「そう。あんたは世界の内にいながら、世界の外へ呼びかけたい。そういう生き物でしょ」
「でもっ! わたしの世界はミスズで……」
「それは傲慢。私はあんたの世界に収まるタマじゃない。もっとずっと広大で遠大で、確かな存在なんだから。わかってるでしょ?」
彼女は息を呑まず、みぞおちに打撃を受けたかのような苦い表情で、口をひらけている。
「けど、あんたも私じゃ計り知れないほどに途方もなく存在してるわけでしょ。お互い様よ、お互い様」
「違う。わたしはずっと、ちっぽけで……」
「でも、それをだれかに暴かせようと思った。作品なんてのは存在の暴露なんだから、そこに自信がないだなんて嘘。ちっぽけでもいいから、何か意味を見出したかったんでしょ」
これは彼女から貰った言葉だ。受け売りというか仕返しというか。あれは確か…………私が彼女に、なぜそんなにも自信満々なのかと訊いたときの返答だったような気がする。彼女は胸を張って、これはわたしなのだ、わたしにはそれだけで意味がある、と、これっぽっちの翳りもなく私に伝えた。それを本人の望むにしろ望まないにしろ暴いてやるのが読者である私の務めだ。別段、心地のいいものではない。けれど作品と向き合うというのはそういうことだと思う。幾片、幾枚ものテキストを捲っていって、時にはテクスチャのほつれた隙間を縫うようにして、そうして奥の奥まで入っていって、ただひとり、真ん中なのに隅っこの方で待っている作家と、同じく丸裸になった自身とが出会う…………私はいつも、そんなふうに彼女の書いたものと対峙している。
だから…………彼女の孤独は、私にはどうすることもできない。だって私では、彼女をその繭の底から引っ張り上げてやることができないから。私はただ、そばにいてやることしかできない。けれど、それでは彼女は孤独なままだ。ひとりぼっちの閉じた世界だ。
本音を言えば、私はただ怖いだけなのだ。彼女が十数年という年月をかけて築き上げてきた尊大で堅牢な砦を、破れかぶれな私が、外はもっと素敵だよ、と下に置いて連れ出すことは、とても怖い。それは彼女の世界を、人生を否定することになりかねない。そうまでして素敵なものを彼女に与えてやることが、果たして一体できるだろうか。だから私はただ友人として、期待に応えてやることくらいしかできないのだ。逃げだ。容易いことだ。そうして現状の温度を緩慢に繋ぎ止めることが、私の与えてやれるさいだいげんの報酬だ。
彼女との出会いを思い返す。去年の文化祭でのこと。自分のクラスのグループに嫌気がさして二つ隣のクラスに入り浸っていたところ、そこにアキヤマがいた。裏方の仕事をしていたように見えたけれど、彼女は誰とも一切話さずに、小さなメモの切れ端をくしゃくしゃに、シャープペンをむちゃくちゃに握りしめながら何かを必死に書いている最中だった。別の友達から、そういう少し変わった人間がいるということは聞いていた。悪い人ではないんだけれどね、なんて枕詞に続いて、その人物にまつわる珍事件のエピソードを何度か聞かされていた。その友達は、笑っていた。おおよその人物像は掴めていた。要は腫れ物扱いだ。割れ物と言ってもいいのかもしれない。今にして思えば、の話だけれども。
とにかく私の周囲とは正反対だった。だからだろうか。私をどこか違う世界へ連れて行ってくれるような気がして、半ば怖いもの見たさで彼女へ声をかけたのが、最初のきっかけだった。何書いてるの、なんて言葉を投げたはずだ。彼女は頑なに言おうとしなかったから、書き終わったら読ませてよ、とだけ言ってその場は去った。そしたら文化祭が終わって一週間も過ぎた頃、いつの間にか私の机の奥には、新品同然の数学の教科書が入れてあったのだ。もちろん自分のは手元にあるので、これは他人のものだとすぐ気づけた。持ち主を確認すべく中をぺらりと捲っていたら、後ろの方の頁に隠すように数枚の紙切れが仕舞い込んであった。くしゃくしゃの紙は他の頁に押しつぶされて、まるで化石みたくひどく平らになって眠っていた。家に帰ってから起き抜けの紙切れを広げて読んでみた。
一言で言えば、私の期待以上だった。と同時に、想定外の出来事だった。何せ初見では読むことすら叶わない。見たことも聞いたこともない言葉ばかり使われていたのだ。古文の方がまだ読めるというもの。嘘でしょ、とやや自嘲気味に臨んでいたのだけれど、読み進めていくうちに、なぜか感動していたのを今でも覚えている。妹を喪った傘職人の話。遺された者が幸せになる権利は一体いつどこで何を境に主張してもいいのか、みたいな。自分と同じだけの時間を生きてきた、それもこんなに身近な人間が、こうも深遠な哲学を自らの言葉でもって語り直せるのか。そんなふうに当時の私は嫉妬したのかもしれない。
何日もかけて牛歩で読解したのち、私は彼女…………アキヤマさんのクラスまで足を運んだ。道場破りの気分だった。けれどその日は欠席していたようで空席だった。机の中にはプリントの一枚たりとも入っていなかった。本当に存在しているのかさえ怪しくなるくらい。肩透かしを食らったようで煮え切らない思いが募った私は、家に帰ってすぐさま名簿から住所を探し当て、彼女の自宅まで押しかけた。思えばどうかしていたけれど、読ませてもらったからには感想を伝えるのが筋だと私の中では一定の論理が通っての行動だったはずだ。そして彼女が出てくるまでインターホンを鳴らして、面と向かって感想と質問とを同時に浴びせてやった。彼女の顔は困惑と歓喜とが綯い交ぜのまま、学校での様子とは打って変わって、いやに陽気に饒舌に二時間以上も玄関前で語ってくれた。それはとても刺激的な時間だった。文字通り、世界が変わる。そんな予感が確信となった瞬間だった。
それから連絡先を交換して、不定期で作品を読ませてもらう関係になった。彼女のお眼鏡に適ったのだろう。それが今も続いている。
私が言えた口ではないけれど、アキヤマには孤独に書き溜めている様が似合うと思う。根拠はないけれど、きっとその方が良い作品を生み出し続けていく気がする。なのに外へ連れ出して読ませてもらっているのは、ひとえに…………彼女に喜んでもらいたいから。それが彼女のため、なんてのは詭弁か。むしろ彼女のせかいを壊してしまう。だから決して彼女のためなどではなく、私個人のエゴのため。だから、
「意味なら私に伝わってる。だから他の誰かにもきっと伝わる。そうやって見える世界もあるだろうし、私はそれで軽く世界が変えられたし。なにより。思ってたよりも、外の世界ってたのしいもんでしょ?」
わざとらしいほどあっけからんな物言いで、私にできるさいていげんの励ましと賛辞を送った。
「…………あなたにそれを言われたら、言い返すことができない」
「嫉妬もあるよ。私は作家になれないけれど、あんたはどうしようもなく作家だ」
「そう。どうしようもなく」
「私はそう思いながら読んでる」
彼女は何かを諦めた、あるいは悟ったような溜め息を一つ。すっかり乾燥しきったおしぼりを広げたり畳んだり丸めたりしながら、
「……どうして、ミスズは読んでくれるの」
彼女は何か決した面持ちで、眉を深めて、そう訊いた。私が読者であり続ける理由を、自身と同じ作家とならない理由を。けれど、そんなの決まっている。
「そりゃ、アキヤマの書く世界が好きだから」
作家としてでなく、一人ぽっちの読者として、いつまでも、この作家様の小説を読んでいたいから。あのとき、感動できたから。言ってしまえばファン第一号というやつだ。くだらないけれども、それが理由。
文学は言葉を扱う以上、必ず意味に係る。意味から逃れることはできない。意味という以上、それは他人を要請するものであり、だれかの応答を待つものだ。星のように、それはすぐには届かないかもしれないけれども、いつか必ずあなたの眼差しを焦がすよう、ひかり続ける、そういうものなのだ。だから、今日のできごとも、いつか彼女が小説に起こしてくれた日には、わたしの祈りとなって、遠いどこかのあなたに届いてくれていることだろう。
「…………そ。初めから」
そうよね、と彼女はどこか、はにかんでいるのか、涙を堪えているのか、何とも見分けのつかない目をこちらに向けて、それから私の持つ原稿用紙たちを、まるで恋文でも盗み見られたかのように、さっと奪い返された。彼女はつくづく気難しい。一瞬拗ねたかのようにも思えたけれど、たちまち開き直ったように、ぐしゃぐしゃとその原稿用紙たちを背嚢の中へ押し込んでしまった。
窓を越して見える通りは青く澱んでいる。珈琲はすっかり色褪せて、音もないまま揺らめいている。いつもより話し込んだせいか、私の喉はとうに枯れていたので、そのぬるい珈琲を一思いにぐびっと飲み干した。
「うぇ。水ない?」
「あるよ、氷溶けたやつだけど」
「ありがと。っはー。なぁーんか、とんでもなく恥ずかしいこと言っちゃった気がする」
「わたしも」
「ま、カフェインに酔ってたってことで」
「わたしも」
「あんた、メロンソーダだったじゃん」
「貰い酔いってやつですぅー」
弾んだ声はシャボンのように。ふわりと溶け出して、ぱっと弾け飛ぶ。そんな意味のない、くだらない会話を交えながら、私たちは喫茶店を出る。このふつうな時間も、いつかは輝かしいものになるのだろうか。そうであれば、このせかいも悪くないと思う。
「決めた。わたし、いつかミスズが主人公の話書く。そんで好き放題書いてやるんだから」
「うっそ。私、それ読まなくちゃいけないの」
「もっちろん。それもミスズだけじゃなくて、色んな人に読んでもらう。ミスズが言ったんだからね。新人賞に出したっていいかも」
「あーあ、余計なこと言っちゃった。や、間違ったこと言ったとは思ってないけど、それはそれとして、ちょっと後悔してる」
「やり返しだと思ってよ。わたしだって傷つくこと、あるんだから」
「私、そんなひどいこと言ったっけ」
「…………いや、いい。忘れて。一方通行だから。ほんと。それよりさ、ミスズがロックスターを目指す話なんてのはどう?」
声にならない叫び声を、幽静な路地前へと投げ込む。夜明けは幽邃だけれども、日暮れは幽静なのだ。とんとんとん、と二人の足音が鳴りわたる。それを確かめるようにして、彼女は、私は、互いの手を握りしめた。
プラットフォームを見下ろす六等星。あの光はいつから走り続けているのだろう。夜空を見上げながら、私はベンチに腰を下ろす。見回しても他に人はいない。だというのに、このベンチは健気に、意味ありげに置かれている。なるほど。意味なんて、こんなもの。
軋んだ音と快速急行とが目の前を横切り、冷たい空気を刺し貫いていく。それをまばたきの間に見送って、私は訳もなくベンチを立つ。そして、
「ありがとーーーーっ!」
誰に向けたわけでもない、けれども言いそびれていた一言を、沈んだ線路へ放り投げた。
月は高く、夜は深く、星は遠く。それらを二人ぽっちの人間が、同じ空の下、見上げていた。各駅停車はゆっくりと、全部をくるみ込むような速度で、ゆっくりと、ゆっくりと、確かな音を伴って、駅に向かっていた。
あの日の思い出を乗せながら………………
このおはなしはここでおしまいです。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
すてきなもの
さんざめく人熱れを抜けて駅の底へと辷り込む。しゃがれた風は頬と鼻とを掠めながら吹きすさぶ。こんなにも乾いているというのに、空は依然として潤んだ光を湛えている。開け放たれた各駅停車。急行待ちの列を分け入って、萩色の優先座席と冷えた腿との隙間に、綾織りの外套を挟んで息をつく。荷物は少ないのだけれども、季節柄、どうにも厚着になってしまうから、外へ出るだけでも体力を消耗する。だから電車に揺られて一駅だけ寝過ごしてしまったのも仕方のないこと。
踏切越しに佇む一番線。幸いにも待たずに渡れたし、さらに程なくして「参ります」との構内放送が響きわたったから、待ち合わせの時間には遅れずに着けそうだ。不幸中の幸い、なんて句がよぎったけれども、すぐさま風の手にさらわれて去っていってしまった。先ほどは草原のような心地で夢見る間もなく安らかなひとときを過ごしてしまったため、今度は吊り革を握りしめて立つことにした。たった一駅分の我慢だ。数分とない。日頃から快速の中の鞄という鞄に拉がれるのを耐え忍んでいるのもあって、がらんどうの各駅をひとり揺られることが、この上ない贅沢のようにさえ感じられた。ただ起き抜けだから、というだけかもしれないけれども。
田園の眺めを過ぎれば目的地の駅だった。競走馬みたく扉の開くのを待ったのち、そのまま転がるようにして改札口を潜り抜けた。携帯に通知は来ていない。はぁ。と白んだ吐息が、音となって溶けていく。いつもの道順を辿って待ち合わせの喫茶店へと足を運ぶ。扉を押したら季節外れの風鈴がお出迎え。1
「いらっしゃいませー、一名様でしょうか」
「いえ、このあともう一人」
かしこまりました、と四人掛けの席へ案内される。通りの見える窓際の席。そういえば一回目の待ち合わせも、この席だったような気がする。窓際の席と一口に言っても、他にも複数あるのだから定かではないけれども。おぼろげな記憶を振り払い切れないまま、あの日と同じアイスコーヒーを注文した。それから外套を脇へ置いて、一人で占めるには広すぎる席で、けれども我が物顔で、どさっと座り直した。袋を破ってお絞りを取り出す。指先から縮こまるのを感じながら、手の平と甲とを満遍なく拭き回す。平らなガラス張りのテーブルはいたく日差しを反射しており、この乾き切った目の奥を鋭く大雑把につんざいている。
「お待たせいたしましたー、アイスコーヒーになります」
「どうも」
「伝票失礼します。ごゆっくりどうぞー」
言われるまでもなく、赤黒い珈琲の中でゆらゆら漂って回る氷に現況を重ねて、ゆるやかな時間の流れを口に含みながら、ごゆっくりと昭山の来るのを待つとしよう。どうやら彼女はまた寝坊のようだ。今朝方に送った起床の確認ラインには既読すら付いていない。毎度遅刻するのならそれはそれで気が楽なのだけれども、なんと起きているというから、2
こちらもうかうか遅刻していられないのだ。この喫茶店は向こうのテリトリーだ。出不精な彼女でも徒歩圏内の喫茶店には顔を出してくれる。さしづめ私は来客だ。であれば少しは歓待してほしいところではあるけれども、今回は私が先に着いただけ、ということで。
引きも切らず、とまではいかないまでも、扉には断続的な人の出入りがあった。涼しげな風鈴の音がそれを報せてくれた。忙しなく飛び回るバイトの店員を横目に、ひどく対照的に私は蜜蜂の気分で珈琲を啜っていた。味は普通。冷えは一級品。夏に飲めば絶品なのだけれども、生憎の寒空。一気に飲み干したら、たちまち腹を下してしまうことだろう。だから、今という待ち時間には最適な注文なのだ。ちょうどいい目慰みになってくれる。手持ち無沙汰にならない程度に、この尖った氷山は回り続けてくれる。溶け出してしまっても構わない。味には大した期待がない。
「いらっしゃいませー、一名様でしょうか」
何度目かの定型文。なのだけれども、
「あ、二名で。一名が先に来てると思うんで、そこに合流したいですっ」
聞き慣れた早口が被さったことを、自分でも驚くほど俊敏に感知できた。
「————お連れ様は……」
「すいません、私です。ここ案内してやってください」
困り果てているバイトを見かねて、一目散に彼女のもとへ歩み寄って手招きをする。
「……ごめん遅れた!」3
「全然。私も結構ギリだったし」
「それ、くれるの?」
予想以上に早い来訪に虚をつかれたせいか、グラスを持ったまま席を立っていたのに気付く。ぎこちない笑顔を向けて指をさす彼女。別にくれてもいい、なんて不愛想な本音を隠して、私は大袈裟に首を振ってみせた。
山でも登るのかというほど量感のある背嚢を携えながら、私の顔など見向きもせずに、彼女は滑るように窓の側まで顔を近付けて、窓から見える通行人の特徴を簡潔に述べてくれた。その音を私は粗末にあしらって、そのまま目の前の珈琲へと視線を注ぐ。好奇心旺盛、とはまた違うと思うのだけれども、彼女の眼差しは、どこか浮世離れしているのだ。見ているものこそ同じであれ、まるで違う世界に生きているよう。いわゆる芸術家肌というやつなのだろう。常人のそれとは違う。
「さっそく、今日の読んでもらいますかっ。あ、その前に注文か。すいませーん! メロンソーダとフレンチトースト一個ずつでー。氷は抜きでお願いしま————」
「店員来てから注文しなよ、まったく……。あとそんな一気に言っても訊き返されるよ。もう一度よろしいですか、って」
注文一つにしても賑やかなのだ。彼女の傍にいれば退屈することはない。きっと彼女の世界には退屈がないのだ。私は名前も知らない他人を見たって、なんの感慨もないのだから、おおよそ私の世界には退屈がうろついていることだろう。そういう意味でも、私と彼4
女はまるで違う。それはこうした些細な言動だけでなく、もっと大きな違い。
「言ってたやつっ、なんとか書けたから……はいっ、これが本日の原稿でっす!」
「あ、すいません。こっちにメロンソーダ氷抜き一つと、あとフレンチトースト単品で。はい。お願いします。はい、ありがとうございます。はい」
手早く彼女の注文を終わらせて、彼女の差し出す原稿を手に取る。ざっと五十枚はあろうか。清書と思しき用紙の下からは、乱暴に黒く塗り潰された紙切れが、蓄えた炭の平らかで滑らかな光を覗かせていた。私にはこの紙切れの方こそ宝玉のように感じられた。
「ちょっと待って、清書は何枚?」
「三枚!」
「じゃあ残りは……」
聞くまでもなく、この三枚を書き上げるまでに積み上げられた屍の山だ。何遍も何遍も書き直しては塗り消して————その結晶がこの三枚の清書ということだ。
「いや、今回ね。そんな時間かからんと思ってたんだけど、あーでもないこーでもないって書き捨ててたら、気付けば三が限界ってくらいの長さになっちゃて」
「三が限界って?」
「いやさ、さっきまで書いてたの。そんで待ち合わせの時間までに間に合うか、どうかってくらい切羽詰まっててー、でっ、中編書く時間はなかったから、おとなしく短編こさえたってわけ。短編っつっても超短編だけど」5
「もしかして……徹夜?」
「そ。オールしちゃいました。なんせ美涼先生に拙稿をご覧に入れてもらうんですから。しかも都会の街から遠路はるばる場末の喫茶店にお越しいただいてまで、そりゃあ夜の一つや二つ、越えてみせるってもんですよー」
先生というなら、むしろ作者である彼女の方だと思うけれども。私はただ読ませてもらう立場なのだし、ただの友人として読ませてもらうだけなのだし、そもそも彼女はもう少し自信を持つべきだとも思う。私の手に挟まる清書を赤子を抱き上げるように、そっと彼女は胸元へ手繰り寄せ、ぴしと端の揃うよう束ねてから改めて、私の方へ卒業証書の授与と同じ姿勢で真っ直ぐに原稿を渡してきた。
「ありがと。じゃ読ませていただきますね」
「どうぞっ、忌憚なきご意見をば!」
その原稿に目を向ける彼女の姿は、語気の軽さに反して、重々しい緊張に包まれていた。私も相応の緊張でもって応えて、この玉稿に臨むことにした。彼女が私に対峙するのと同じく挑むような気持ちで————6
幽邃な引き明けを覆い隠す様に潸々と降り頻る甚雨が何時止むのかと哲治は潤び草臥れた畢色の長襦袢をとんと払って一糸惑わず波頭を揃えて邁進する穂波の行く末を鉄塔から延びる電纜に遮られながらも案じて居た。
俯せに蹲う哲治に雪子は非道く憐憫を寄せて居り其れは女房の須く果たすべき世務の範疇を優に超越する慈愛にも似た非人道的な慕情を今尚伴侶に捧げて居るのであった。
其れは決して異常ではなく妥当であった。此の何月か哲治は只管に原稿へ眼を落とし肘を結晶の如く机上へ突き刺し腰を石塊の様に重らせ遮二無二手を振り回しては其の書いた用紙を黒く塗り潰して放し又新たに真白い原稿用紙を引っ張り出しては同じ事を繰り返す謂わば小説の物怪と化して居たのであった。
窓から覗く佇花の実が風雨に依って一つとして残る事なく末枯れた枝先を然し意気地無く伸ばして居るのを雪子は眼前の哲治の蹲う惨めな姿に重ね有ろうことか陶酔して居た。
此れこそ非人道的ではないかと糾弾する者も有ろうが否である。寧ろ雪子は天涯孤独の象牙の塔にて幽棲の身である哲治の事を只一人見守り介助する事の出来る今日の身分を天上の何とも比する事の能わぬ程の極上であると思って居り其れを今当に天嶮の巓より望む遠景の如く明顕に目の当たりにした此の状況を永久としたく独占欲求が働いたのであるのだから此れは極めて人間的欲求であり又人道的と云えるのではないだろうか。
哲治は還暦を迎えても尚矍鑠とした丈夫であったが然し百代の過客の如き流れには抗えず又作家然とした日頃の不摂生が祟って今日には骨立の身形に堕してしまったのである。 7
雪子は其れらを止めも咎めもしなかった。一心に哲治の眼差す世界を只信じて居ただけなのである。雪子は哲治を愛して居るのでは無い。哲治の手に依って織り成される紋様こそが堪らなく大事な物なのである。其の哲治も最早原稿には向き合えないかと思われた。
然し雪子の信じた通り哲治は筆を執らずとも尚此の世界を眼差すのである。蘓色の穂波を大窓を越して眼差して居る。
「雪子」
「何で御座いましょう旦那様」
「儂の眼前に広がる儂の眼差す此の素敵な物を一体如何して書かずに居られるだろうか」
「ええ旦那様。して拙は何を致せば」
「儂は疾うに筆硯に浴する身分でなかった。此の手は道具であり此の目は世界であった。其れらも最早朽ちてしまおう。されば雪子お前が儂の目と成り手と成り世界と成ってはくれんか」
「申し訳御座いません。恐れながら拙は旦那様の世界に成れはしません。拙には既に拙の世界が有るのですから。其れでも大事なければ拙が今一度筆を執ってみせましょう」
哲治は世界の終わる時まで大変素敵な物を眼差して居た。拙い紋様を書いては消す雪子の新芽の如く丸まった背中を眼差して居た。8
「で、どうでしょうか」
彼女は挑むような顔つきで、腕を拱いたままテーブルの上に乗せ、こちらの反応を前屈みに窺い尋ねてくる。その姿はどこかぎこちない。彼女のうちに潜む猛獣がびしゃっと人の鋳型に押し込められているような、サーカスのような可笑しさがあった。
「そうね。まず全体的な感想としては、何となく分かるけれども……って感じ」
「それでいい」
「で、こっからは質問攻めに入らせてもらいたいわけだけれども、それでもいい?」
「いい」
全部は教えないけれどもね、と付け加えた彼女の目には、しかして確かな意思と信念とが宿っていた。つと私は鞄から携帯を取り出し、それから大仰な国語辞典を、小石みたく丸まった氷の浮く珈琲の横へと置いた。
「幽……邃……静かって意味ね」
「ちーがーう。夜明けの奥行きってあるじゃない。あれを表すには幽邃しかなかったの。単に物静かなだけだと情緒ってもんがないじゃない」
彼女はいつもこうだ。この世にごまんとある言葉の中から、その対象を言い表すのに最も適した言葉を掬い取ってこようとする。それは得てして見慣れない単語や難読漢字の多用に繋がってしまうわけだけれども。
「まぁ確かに幽玄な趣はあるよね。同じ幽だし。そんで、潸々……これは涙に使う形容じ9
ゃないの?」
「間違ってはない。狙ってるし。これは涙みたいにさめざめと降ってるって描写のつもりだったから。けど、雨にも使えるはず」
「なるほどね。降り頻る、はいいとして……甚雨……ひどい雨ってことか」
私が先ほど振ってみせた何倍もの勢いで、彼女は首や顔を目一杯に使ってノーを示す。私の平凡な思考など、とうに対策済みらしい。
「甚雨! 『じんう』でも間違いじゃないけど、ここでは『ひさめ』なの。大雨とか豪雨って書くより、ずっと優しい感じがするでしょ?」
「まぁ……そうね。潤び……草臥れ……畢……色?」
「畢色」
「…………そんな色ないんだけど」
「ないから書いたの。哲治の着てる長襦袢は、その色でしか表せないの」
彼女の言葉は彼女自身にしか理解できない領域にまで踏み込むことがある。例えば今回の色がそうだ。自分の頭の中にイメージがあるのなら、それに近しい色を探してくれば、あるいは初めから既存の色名をイメージに反映させれば、一般にも浸透した色で言い表すことができる。だというのに、彼女はそれでは飽き足らない。国語辞典に載っているような既存の語彙では、彼女のイメージをそっくりそのまま写し取るには不足があるらしい。10
確かに既存の語……漢字や音を用いてはいるのだけれども、それが色を表すために使われたことのないものであったとしても、彼女はそれをイメージとして、モチーフとして、誰も気付かなかった場所から掬い取る。
「畢っていうのは、つながりを捨てないままの終わりなの。ずーっと続いてきた、けれど終わってしまうもの。そういうニュアンス。だから畢生ってのは人の一生。生まれてから死ぬまでのつながりを持たせたままの」
「で、現実に近い色で言ったら何色、これ」
「うーん。考えたことなかったなぁ」
汚れた黄土色とかじゃないの、と先ほどまでとは打って変わって、いやに自信なさげに彼女は声をくぐもらせる。そう、彼女の中ではもう畢色という言葉があるのだから、それをわざわざ別の言葉で表す必要などないのだ。彼女にとって、言葉とはそういうものだ。
「電纜、ね。これ前も出てきたから分かる」
「さっすが。なら俯せも分かるっしょ」
「うん。蹲……は『つくばう』か。『ひどく』が『酷く』じゃないのは?」
「そのあとの『非人道的』に掛けたかったからかな。道理に外れてるって感じ」
「言われてみれば。確かに非道ってのが何の詰まりもなくスルッと入ってきたわ」
「でしょー?」
それからも細かい表現に関して質疑応答を繰り返すこと一時間。ようやっと文章の尻ま11
で辿り着いた。佇花なんて花はなくて、橘の当て字だということ。巓の方が頂よりも見渡す景色の広がりを感じられるということ。独占欲とするのでなく独占欲求としたのには、これが雪子の抱く根源的な欲求を表すのに相応しいなんて彼女なりの論理があるということ。蘓色なんて色もなくて、日に照らされた眩しい穂の色が、何か生き物の蘓るイメージと一致したらしいということ。雪子が筆を執ったのは哲治への憐憫からだということ。哲治の目は視力を失っていたということ。
色々なことを教えてもらって、私はつい数時間前よりもよっぽど賢くなれた気がした。半分ほどは非現実の造語の知識だけれども。
「なぁるほどね。哲治は初めから見えてなかったのか。なんで天気悪いのに綺麗な景色見えてるんだって思ったら、そういうこと」
「だから『見て居た』じゃなくて『眼差して居た』でしょ?」
「ほんとだ。ただ単にカッコつけてただけってわけじゃなかったんだ」
「失礼な。ちゃんと考えてますよーだ。他にも……原稿を黒く塗り潰してた場面あったでしょ。あそこも消して書き直せばよくねって思うでしょ?」
「それはそう…………けど、哲治は見えてないから……」
「そ。書いた文字の位置が正確じゃないの。だから一文字消すんじゃなくて塗り潰すの。紙を替えて全部いちから書き直しってわけ。人の背中をなぞって文字を伝えるイメージ。まぁ哲治のことだし、真っ暗闇の中ってわけじゃないだろうけどもね」12
彼女の持ってきた下書き原稿を思い出す。彼女は単に気に入らなかったら一からやり直す性格だ。だから哲治とは訳が違うのだけれども、やはり眼差している世界が決定的に人とは違うのだと、彼女の思索の深さを聞いて思い知る。いわゆる天才なのだろう。
「けどさけどさ。最後は雪子の背中、眼差してるよね。これは?」
「雪子のことだけは『視えて』たんだよ。いや、正確には見えてないんだけど」
「雪子の姿だけはイメージと現実とが寸分違わず一致してたってこと?」
「大雑把に言えば、そう。けどちょっと違って、哲治のそのイメージは、常に雪子の方を向いていたから、誰よりも雪子のことを眼差していたから、雪子のありのままの姿を脳に映せていたってわけ」
「それも愛ゆえにってことか」
「愛とはまた違うんだよなー」
「愛がなきゃ結婚までいかなくない?」
「恋愛で喩えるなら、この二人は決定的にすれ違ってんの。哲治は雪子のありのままを愛しているのに、雪子はそれを哲治の見てる世界と比べて、それこそ哲治自身のことより愛するほどに、そんで自分のことを卑下してる。でも、哲治は雪子の愛する世界が、この現実に広がる素敵な物だって勘違いしてる」
「お互い愛してるものが違って、それでいて両方が自分じゃないと勘違い……」
そこまで思い至って、私は一つ、どうしても彼女に言ってやりたくなった。13
「……さすがに言葉足らずだって」
暗示こそされているとはいえ、哲治の目が見えていないことなんて、本文のどこにも明示されていない。全部を教えたら小説ではないという意見には賛同するけれども、ここまでひた隠しにされていると、それはもはや何も言っていないに等しいのではないだろうか。
「でも、今こうして説明したら分かってくれたでしょ? それありきで書いてるんだし」
「それは……そうだけどもさ……」
それは読み手に不誠実だ、などとは口が裂けても言えなかった。彼女にとって読み手とは私一人のことであり、この原稿用紙三枚だって、その下に息を潜ませる下書き用紙の数十枚だって、それらを書き上げるために費やした数週間ほどの歳月だって、すべて私一人ぽっちに読ませるための通過儀礼なのだ。そのことは二度目のときに教えられた。
そして何より、私に対して、これほどまでに真っ直ぐ、誠実に向き合ってくれる態度が他にあるだろうか。それを当事者として、一人ぽっちの読者として、嫌というほど痛感しているのだから、不誠実という言葉を口にすることは、できなかった。
「美涼に読んでもらって、分からなかったとこはわたしが逐一解説したげる。どうよ、完璧でしょ? 作者直々の解説なんだからね」
「けどさ。小説って、もっと開かれてるものじゃないの? 売ってる本はもちろん色んな人に読んでもらいたいって思いがあるだろうし、そうでなくても未来の自分が読み返すことも考えて分かるように書くと思うんだけれど。ほら、現文の授業で、なんか言ってたじ14
ゃん。世界という広い海原にさ、たった一言を瓶に詰めて、それを見えもしない遠くの島にいるかもしれない読者に流す。それこそが小説であり文学だ、って」
「何も海に放たなくても。わたしの島にはね、もう美涼が漂着してるの。ひとりじゃないんだから。そばにいる人に向けて手紙を手渡しするのも、別に悪いことじゃないでしょ?」
言葉に窮して思わず俯いてしまう。けれども、どうして彼女はそこまでして、私に読んでもらうことにこだわるのか。その訳を今更に尋ねたら、彼女はなんの恥じらいもなく、
「そりゃ、美涼の見てる世界が好きだから」
どこかで読んだ言い回しを口にした。
思えば————彼女は初めから、私がどう読んだのかを、神経質なほど気にしていた。初めは客観的視点を要されていると思って、そのままを述べれば、彼女は喜んでくれた。私はこんな素人の感想程度で、これほど気難しい文章を書く作家様が、満足できるのだろうかと疑問を抱いていたけれども、今にして思えば、それが正解だったのだろうか。忌憚なき意見、なんて言葉の意味も知らぬまま、多少の気遣いは込めておこうと思っていたのだけれど、けれど思っていた以上に、ずっと素敵な作品を渡されて、私は気付けば自分でも何を言っているのか分からないくらい、勢い任せの一方通行な感想を吐き出していた。
それを彼女は大袈裟にも世界と称して、あまつさえ好いているのだと言う。その気持ちを無碍にすることはできない。とはいえやはり抽象が過ぎるので、いまいち要領を得ない15
のも許してほしい。言葉足らずなのは小説の中の世界でだけにしてほしい。
「……けどさ、じゃあさ。なんで好き?」
それがどういう類の好意であったとしても、まずはその理由や動機を尋ねるのがマナーというものだと思う。好意は好意的に受け止めなければならない、なんて決まりはないけれど、好意に限らず相手の気持ちというのは、無視することも捻じ曲げるようなこともしてはいけないだろう。それが自身に向けられたものであればなおのこと。
「うーん。……わかんないけど」
彼女の言葉はいつだって力強い。言葉選びが、という意味ではなくて、もっと根本的に芯の通ったものだという意味。要は自信と持論に裏打ちされているのだ。そんな彼女から「わかんない」なんて気弱な、あるいは簡単な、急ごしらえな言葉が飛び出てくるとは思わなかった。いや、彼女に「わかんない」ことなんて今までなかったような気さえする。不思議と安堵を覚えてしまうのは私が弱い人間だから。彼女は弱音を吐くように続けて、「美涼は素直に入ってくれるじゃん。わたしの文体って硬いから、他の人に読ませちゃすぐリタイアよ。今まで誰にも読ませたことないけど、たぶんきっとそう。わたしの文章なんて誰も」
「そんなことない。世界には何十億って人がいるんだし、日本人だけでも一億人。学校にだって数百人はいる。そんだけいれば、一人くらい、いや二人か三人くらい、興味本位でも読んでくれる人はいるよ」16
「興味本位って、それって目を通すってだけなんじゃないの」
「苦戦しながらも頑張って読んでくれる人って意味。まだ何も見えてないけど読み進めていけば何かあるんだろうなって好奇心で読んでくれる人。一人くらいはいるでしょ」
「その一人が美涼じゃ、だめ?」
————これは私の失策だ。一人なら既に私という読者がいて、彼女はそれに満足しているという話だったのに。
「とにかくわたしは、他の人に読んでもらおうなんて思ってない。わたしと美涼、二人だけの文章で構わない。これは決めてるの」
「自信がないってわけじゃないんでしょ? あんた、実際それなりの文章書けるんだし」
「それなり……。まぁプロ並みじゃないですけれども。ともかく、答えるなら、イエス。何日もかけて、自信を持って、美涼に読ませられる、読ませてもいい文章をこさえてる」
ならどうして、そう返す寸前。彼女が深く息を溜め込んだのを見て、矢継ぎ早に何か言いたげな表情をしているのを見て、私は口を噤んで彼女を見守ることにした。
「だって、それじゃ届かない。わたしは読者なんてアヤフヤなものじゃなくて、読者に届いてほしいの。大衆向けって言うんだろうけども、そういう広く浅くじゃ、わたしの想いは届かない。そういう小説があるのは全然いいけれども、わたしはもっと読者を眼差していたい。読者に、貫かれていたい」
あなた、はきっとどこにもいないだろう。この先いつかどこかで見つかるものでもない17
のだろう。ありもしない蜃気楼に、それでも声を投げたくなるのと同じ。彼女は夢を見ている。けれどそれは何も彼女が特別なわけではなくて、むしろごく普通の、彼女にしてはひどく人間らしい、もっともらしい心の顕れに違いなかった。私は彼女の夢になることはできない。彼女を照らす星の光になることなんてあるわけがない。正直、彼女のことは全然わからないことだらけ。けれども————
「だったら言うけど、違うよ。それだったらただの手紙でいいって話じゃん。だってのに人類が、あんたが、なんで小説を書きたがるのかって言ったら、そりゃ世界に届いてほしいって思ってるからでしょ? そこんとこ否定しちゃ、あんたの文章を、こうして時間かけてわざわざ読みに来る価値が、うんと落ちちゃう。なんなら県内だから着払いの方が交通費よりも安く済むだろうし」
小説の価値を貶めるのだけは、違うと思う。卑下とは違う。明確な冒涜だ。彼女自身への冒涜にあたる。
「あんたの掬い上げた言葉はさ、これまで生きてきた誰かが何遍も何遍も口にして、文字にして、こうして今に残してくれた遺産なんだから。あんたはそれでも足りないって言うけれども、けれども、あんたは一度だって、語意を無視しなかった。意味を尊重しつつ、伝わりづらい表現を毎度生み出してってた。音や響きだけで造語を作ってもよかったってのに、あんたはそれをしなかった。それはどうして?」
「それは————」18
「その誰かに、自分もなれたら、なんて思ったからでしょ。作家は言葉を使う。何も言葉じゃなくていいものを、必要以上に捏ねて、言葉にする」
「……言葉は、わたしの世界だから。わたしには、それしかないから」
「そう。作家は世界の内にいながら、世界の外へ呼びかけたい。そういう生き物でしょ」
「でもっ! わたしの世界は美涼で……」
「それは傲慢。私はあんたの世界に収まるタマじゃない。もっとずっと広大で遠大で、確かな存在なんだから。わかってるでしょ?」
彼女は息を呑まず、鳩尾に打撃を受けたかのような苦い表情で、口を開けている。
「けど、あんたも私じゃ計り知れないほどに途方もなく存在してるわけでしょ。お互い様よ、お互い様」
「違う。わたしはずっと、ちっぽけで……」
「でも、それを世界に暴かせようと思った。作品なんてのは存在の暴露なんだから、そこに自信がないだなんて嘘。ちっぽけでもいいから、何か意味を見出したかったんでしょ」
これは彼女から貰った言葉だ。受け売りというか仕返しというか。あれは確か————私が彼女に、なぜそんなにも自信満々なのかと訊いたときの返答だったような気がする。彼女は胸を張って、作品はわたしなのだ、わたしにはそれだけで意味がある、と、これっぽっちの翳りもなく私に伝えた。それを本人の望むにしろ望まないにしろ暴いてやるのが読19
者である私の務めだ。別段、心地のいいものではない。けれど作品と向き合うというのはそういうことだと思う。幾片、幾枚ものテキストを捲っていって、時にはテクスチャの解れた隙間を縫うようにして、そうして奥の奥まで入っていって、ただひとり、真ん中なのに隅っこの方で待っている作家と、同じく丸裸になった自身とが出会う————私はいつも、そんなふうに彼女の書いた世界と対峙している。
だから————彼女の孤独は、私にはどうすることもできない。だって私では、彼女をその繭の底から引っ張り上げてやることができないから。私はただ、そばにいてやることしかできない。けれど、それでは彼女は孤独なままだ。ひとりぼっちの閉じた世界だ。
本音を言えば、私はただ怖いだけなのだ。彼女が十数年という年月をかけて築き上げてきた尊大で堅牢な砦を、破れかぶれな私が、外はもっと素敵だよ、と下に置いて連れ出すことは、とても怖い。それは彼女の世界を、人生を否定することになりかねない。そうまでして素敵なものを彼女に与えてやることが、果たして一体できるだろうか。だから私はただ友人として、期待に応えてやることくらいしかできないのだ。逃げだ。容易い反応だ。そうして現状の温度を緩慢に繋ぎ止めることが、私の与えてやれる最低限の報酬だ。
彼女との出会いを思い返す。去年の文化祭でのこと。自分のクラスのグループに嫌気がさして二つ隣のクラスに入り浸っていたところ、そこに昭山がいた。裏方の仕事をしていたように見えたけれど、彼女は誰とも一切話さずに、小さなメモの切れ端をくしゃくしゃに、シャープペンをむちゃくちゃに握りしめながら何かを必死に書いている最中だった。20
別の友達から、そういう少し変わった人間がいるということは聞いていた。悪い人ではないんだけれどね、なんて枕詞に続いて、その人物にまつわる珍事件のエピソードを何度か聞かされていた。その友達は、笑っていた。おおよその人物像は掴めていた。要は腫れ物扱いだ。割れ物と言ってもいいのかもしれない。今にして思えば、の話だけれども。
とにかく私の周囲とは正反対だった。だからだろうか。私をどこか違う世界へ連れて行ってくれるような気がして、半ば怖いもの見たさで彼女へ声をかけたのが、最初のきっかけだった。何書いてるの、なんて言葉を投げたはずだ。彼女は頑なに言おうとしなかったから、書き終わったら読ませてよ、とだけ言ってその場は去った。そしたら文化祭が終わって一週間も過ぎた頃、いつの間にか私の机の奥には、新品同然の数学の教科書が入れてあったのだ。もちろん自分のは手元にあるので、これは他人のものだとすぐ気づけた。持ち主を確認すべく中をぺらりと捲っていたら、後ろの方の頁に隠すように数枚の紙切れが仕舞い込んであった。くしゃくしゃの紙は他の頁に押しつぶされて、まるで化石みたくひどく平らになって眠っていた。家に帰ってから起き抜けの紙切れを広げて読んでみた。
一言で言えば、私の期待以上だった。と同時に、想定外の出来事だった。何せ初見では読むことすら叶わない。見たことも聞いたこともない言葉ばかり使われていたのだ。古文の方がまだ読めるというもの。嘘でしょ、とやや自嘲気味に臨んでいたのだけれど、読み進めていくうちに、なぜか感動していたのを今でも覚えている。妹を喪った傘職人の話。遺された者が幸せになる権利は一体いつどこで何を境に主張してもいいのか、みたいな。21
自分と同じだけの時間を生きてきた、それもこんなに身近な人間が、こうも深遠な哲学を自らの言葉でもって語り直せるのか。そんなふうに当時の私は嫉妬したのかもしれない。
何日もかけて牛歩で読解したのち、私は彼女————昭山さんのクラスまで足を運んだ。道場破りの気分だった。けれどその日は欠席していたようで空席だった。机の中にはプリントの一枚たりとも入っていなかった。本当に存在しているのかさえ怪しくなるくらい。肩透かしを食らったようで煮え切らない思いが募った私は、家に帰ってすぐさま名簿から住所を探し当て、彼女の自宅まで押しかけた。思えばどうかしていたけれど、読ませてもらったからには感想を伝えるのが筋だと私の中では一定の論理が通っての行動だったはずだ。そして彼女が出てくるまでインターホンを鳴らして、面と向かって感想と質問とを同時に浴びせてやった。彼女の顔は困惑と歓喜とが綯い交ぜのまま、学校での様子とは打って変わって、いやに陽気に饒舌に二時間以上も玄関前で語ってくれた。それはとても刺激的な時間だった。文字通り、世界が変わる。そんな予感が確信となった瞬間だった。
それから連絡先を交換して、不定期で作品を読ませてもらう関係になった。彼女のお眼鏡に適ったのだろう。それが今も続いている。
私が言えた口ではないけれど、昭山には孤独に書き溜めている様が似合うと思う。根拠はないけれど、きっとその方が良い作品を生み出し続けていく気がする。なのに外へ連れ出して読ませてもらっているのは、ひとえに————彼女に喜んでもらいたいから。それが彼女のため、なんてのは詭弁か。むしろ彼女の個性を壊してしまう。だから決して彼女のためなどではなく、私個人のエゴのため。だから、22
「意味なら私に伝わってる。だから他の誰かにもきっと伝わる。そうやって見える世界もあるだろうし、私はそれで軽く世界が変えられたし。なにより。思ってたよりも、外の世界って眩しいもんでしょ?」
わざとらしいほどあっけからんな物言いで、私にできる最大限の励ましと賛辞を送った。
「————美涼にそれを言われたら、言い返すことができない」
「嫉妬もあるよ。私は作家になれないけれど、あんたはどうしようもなく作家だ」
「そう。どうしようもなく」
「私はそう思いながら読んでる」
彼女は何かを諦めた、あるいは悟ったような溜め息を一つ。すっかり乾燥しきったおしぼりを広げたり畳んだり丸めたりしながら、
「……どうして、美涼は読んでくれるの」
彼女は何か決した面持ちで、眉を深めて、そう訊いた。私が読者であり続ける理由を、自身と同じ作家とならない理由を。けれど、そんなの決まっている。
「そりゃ、昭山の書く世界が好きだから」
作家としてでなく、一人ぽっちの読者として、いつまでも、この作家様の小説を読んでいたいから。あのとき、感動できたから。言ってしまえばファン第一号というやつだ。くだらないけれども、それが理由。23
文学は言葉を扱う以上、必ず意味に係る。意味から逃れることはできない。意味という以上、それは他人を要請するものであり、世界の応答を待つものだ。星のように、それはすぐには届かないかもしれないけれども、いつか必ず読者の眼差しを焦がすよう、祈り続ける、そういうものなのだ。だから、今日の喫茶店も、いつか彼女が小説に起こしてくれた日には、私の祈りとなって、遠いどこかの読者に届いてくれていることだろう。
「————そ。初めから」
そうよね、と彼女はどこか、はにかんでいるのか、涙を堪えているのか、何とも見分けのつかない目をこちらに向けて、それから私の持つ原稿用紙たちを、まるで恋文でも盗み見られたかのように、さっと奪い返された。彼女はつくづく気難しい。一瞬拗ねたかのようにも思えたけれど、たちまち開き直ったように、ぐしゃぐしゃとその原稿用紙たちを背嚢の中へ押し込んでしまった。
窓を越して見える通りは青く澱んでいる。珈琲はすっかり色褪せて、音もないまま揺らめいている。いつもより話し込んだせいか、私の喉はとうに枯れていたので、その不味い珈琲を一思いにぐびっと飲み干した。
「うぇ。水ない?」
「あるよ、氷溶けたやつだけど」
「ありがと。っはー。なぁーんか、とんでもなく恥ずかしいこと言っちゃった気がする」
「わたしも」24
「ま、カフェインに酔ってたってことで」
「わたしも」
「あんた、メロンソーダだったじゃん」
「貰い酔いってやつですぅー」
弾んだ声はシャボンのように。ふわりと溶け出して、ぱっと弾け飛ぶ。そんな意味のない、くだらない会話を交えながら、私たちは喫茶店を出る。この無駄な時間も、いつかは輝かしい意味になるのだろうか。そうであれば、この現実も悪くないと思う。
「決めた。わたし、いつか美涼が主人公の話書く。そんで好き放題書いてやるんだから」
「うっそ。私、それ読まなくちゃいけないの」
「もっちろん。それも美涼だけじゃなくて、色んな人に読んでもらう。美涼が言ったんだからね。新人賞に出したっていいかも」
「あーあ、余計なこと言っちゃった。や、間違ったこと言ったとは思ってないけど、それはそれとして、ちょっと後悔してる」
「やり返しだと思ってよ。わたしだって傷つくこと、あるんだから」
「私、そんなひどいこと言ったっけ」
「————いや、いい。忘れて。一方通行だから。ほんと。それよりさ、美涼がロックスターを目指す話なんてのはどう?」25
声にならない叫び声を、幽静な路地前へと投げ込む。夜明けは幽邃だけれども、日暮れは幽静なのだ。とんとんとん、と二人の足音が鳴りわたる。それを確かめるようにして、彼女は、私は、互いの手を握りしめた。
プラットフォームを見下ろす六等星。あの光はいつから走り続けているのだろう。夜空を見上げながら、私はベンチに腰を下ろす。見回しても他に人はいない。だというのに、このベンチは健気に、意味ありげに置かれている。なるほど。意味なんて、こんなもの。
軋んだ音と快速急行とが目の前を横切り、冷たい空気を刺し貫いていく。それを瞬きの間に見送って、私は訳もなくベンチを立つ。そして、
「ありがとーーーーっ!」
誰に向けたわけでもない、けれども言いそびれていた一言を、沈んだ線路へ放り投げた。
月は高く、夜は深く、星は遠く。それらを二人ぽっちの人間が、同じ空の下、見上げていた。各駅停車はゆっくりと、全部を包み込むような速度で、ゆっくりと、ゆっくりと、確かな音を伴って、駅に向かっていた。
あの日の思い出を乗せながら——————26